意味と発音

童謡の『赤い帽子白い帽子』を聴いてみました。恥ずかしながら、この曲を私は知りませんでした。チャーミングで素敵です。いちばん印象的だったのは、リズム。跳ねたグルーヴが特徴的です。演奏者の個性によるのかなと思ってふたつの演奏を聴き比べてみましたが、このグルーヴは共通の特徴のようです。えっちらおっちら、といいますが、よたよたとあちこち駆けて行くような拙さ、幼さを感じます。かわいらしい。でも、「赤い帽子白い帽子」をかぶって、ランドセルもしょってということですから、学童ですよね。幼稚園や保育園の乳幼児ではありませんから、もう足取りもしっかりしている子たちのはずです。でも、童心の自由さ、とりとめのなさは、乳幼児か学童かに限りませんし、おとなだって、そうしたちぐはぐした移ろうこころを持っていると思います。大人が聴いても、魅力を感じる一因かもしれません。


歌詞には意味があります。意味がある言葉でできています。それなのに、想起する映像はそれぞれです。(なんだったら、音楽を聴いている状態でさえ、同時に音声も想起する人もいるかもしれません。)ことばの意味を理解する体験がひとりひとり違うので、当然のことかもしれません。たとえば、西洋うまれの大型の狩猟犬を「これが犬だよ」と紹介されて「犬」という言葉を覚えた人と、東洋うまれのこじんまりした犬をきっかけに「犬」という言葉を覚えた人では、犬という単語から想起するものがまったく異なってくるでしょう。もちろん、単一の経験ではなく、いくつもの体験がカクテルされて「こういうものが犬かぁ」と理解するので、そうした体験が増えれば増えるほど、大型の狩猟犬も東洋の小型犬も同じ「犬」という分類が可能な仲間どうし、ということをより理解します。


そんなことがあって、言葉、単語の組み合わせである詩や物語なんかも、読み手によって、立ち上がるものがまるで変わってくるのです。同一人物であっても、その文芸作品にふれた時期によっては、まるで違う読み味を覚えます。体験が時期の違いによって、増えて行くからでしょう。忘れて「減る」こともあるかしら? 平面上に並べられるスペースが限られていることを、記憶の要領が有限であることにたとえるのなら、「新しい体験」というカードを、古い体験のカードの上に重ねて置くようなイメージでしょうか。古い記憶はなくなったわけではないけれど、真っ先に表面上に見えているのは最新の体験だということになります。そのイメージをひと手間かけて除ける。つまりじっくり思い出してみたり、きっかけ(見切れた古いカードのはしっこ)をつかんだりすることで、古いカードがどんなものだったかがわかるということはありそうです。消去ではなく、アンドゥ・リドゥが効く上書きなのですね。


清音とか濁音とかいったように、意味とは別のところで、印象を左右する要素があります。発音のことですね。発音が与える印象と、その単語が含む意味とのあいだに関連を見出せる場合もあるでしょうけれど、多くの場合はその人の推察の鋭さがそれを可能にするだけであって、その発音をその単語が持ったのは「たまたま」な気がします。といいつつも、そうとも言い切れないのかもしれませんけれど。個別の単語のなりたちによるのでしょうね。たとえば「ばくだん(爆弾)」(思いつきで、深い意味はありません)。「ば(ba)」という破裂音が語頭にあるので、意味と関連深いように思えますけれど、「爆」という語のなりたちとして、その意味をこの発音であらわすこととなったルーツを私はまだ知りません。「ばばばばば」という表記や発音から、あなたは何を想像するでしょうか。自動小銃を連射するさま?(私は先の「爆弾」のイメージに引っ張られています) 高速でトランプのカードを机上に並べて出す早業? 「ばかやろう」が言えなくて、どもっている最中?


ことばのひとつひとつは分子や原子みたいなもので、その組み合わせは複雑で膨大。無限の表現が可能なことばというツールを手にしています。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎