絞れる・絞れない

テレビを見る習慣が私にはありませんが、コロナ情報に関わる放送をザッピングして追いかけ続けたとしたら、延々と見ていられるんじゃないかと想像します。ほんとうに重要な結論をいくつか知って、適確に行動すればいいだけだと思うので、そこまでの情報を私は必要としていません。情報といっていいのかもためらわれるほどの情報過多で、それは確かに、ネット上に場所を移しても同様かもしれません。無いに等しい編集方針によって、より数多の媒体・個人によって情報が右へ左へ流されるぶん、テレビ放送よりも惑わす要素が多いかもわかりません。


なんだか目がかゆいなと思って、手でこすってしまって、ものもらいができたかのように眼輪周辺が腫れぼったくなってしまって、それからなんだか喉が痛くなったり鼻水が詰まったりと全身に不調が伝播していくという経験が私にはここ最近も含めて幾度かありまして、つくづく、目・鼻・口は直接つながっているんだなと痛感します。つい、顔面に手を持って行きそうになる自分を頻繁に意識しては、その手を制しています。今までの私は、どれだけ顔面周辺を触っていたんだろう。


やろうと計画していたいろいろのことに、影響が出ています。私が直接関わるもので、直近の時期よりはもう少し先くらいに設定されていたのでまだ中止や延期の検討そのものを見送って様子を見続けていたものがあるのですが、それに関しても、いよいよそうした開催の有無や先送りについて、その可能性について具体的な情報収集を始めたものもあります。予定通りの期日に「開催したパターン」を想定して準備を続けることに、私はかねてよりなんのためらいもなかったのですが、これらの仕事にも、ストップをかけたり取り下げたりするものが多く含まれる可能性を現実的に思うと、少しやるせないような、開き直ったような気分になりました。ずっとそんなことはなかったのですが、最近になって顕著に感じ始めたことでした。


顔を隠すことに対しての価値観が、日本とはだいぶ違う国があると聞きます。そうした文化圏の存在を思うと、マスクをほとんど日用品とみなす日本人の感覚は、けっこう特異なものなのかもしれません。それを、潔癖ととらえる文化圏の人がいてもおかしくないと思います。ですが、そうした国民性が手伝って、感染の蔓延に歯止めをかけている部分も確かにあるのかもしれません。繊細な体感覚、感受性を持っているともいえるし、配慮や意識の高さのあらわれでもあるのでしょう。もちろん、好ましくない意味での「過敏」「潔癖」と紙一重でもあるのでしょうけれど。


私は日常的に、他の大陸に出入りすることはありませんけれど、そうした、海や大陸を越えての人の出入りが、世界の日常になっています。人間の数が単純に増えたし、より局所に高密度で生活するようになったのだとも思います。このウィルスの登場も、時代が違えばその展開もまた異なったのでしょうね。いえ、また、それとは別の深刻な情勢が、どの時代にもあるのかもしれませんけれど。



お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎