同調と加担の森を背に

いろんな種類のハーブがちょっとずつ寄せて植えられている、そんな庭を見かけると、まじまじと見入ってしまう。これはあのハーブで、ええと、こっちはなんていったっけかな、なんて思いながらちょっと指でさわって、さわった指を鼻の近くに持っていく。自分の好きな種類の匂いを感じる、これこれこの匂い、なんていいつつ名前は思い出せない。気持ちがすぅっとなる。

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私はテレビを見る習慣がありませんが、おそらく、テレビの時事的な番組なんかは例のウィルス関連のニュースでいっぱいなんだろうなと思います。


話題になっていることがあって、その話題で溢れれば溢れるほどに、さらにその話題で満たさなきゃ、という心理でもはたらくのでしょうか。たとえば、本がたくさん置いてあるところに、はだかんぼのハンバーガーがポカンと置かれていたらどうでしょう。おいおい、こんなところにハンバーガーを置いたのは誰だ? 片付けてくれよ、なんて声があがるかもしれません。


個人の家だったら、脈絡なく雑多なものがごったがえしていても何も差し支えないかもしれませんが、多くの人の目にとまる場所だと、やっぱり脈絡のない異質なものは取り除かれる傾向にあるのかもしれません。(例えがへたくそでへんてこで申し訳ありません。)


その場所が、はだかんぼのハンバーガーで満たされた場所だったら、むしろ、本のほうが異質なものです。おいおい、こんなところに本を置いたのは誰だい? やめておくれよ、なんて声だってあがるかもしれません。


最初から、そこが何かで人為的に満たされていたはずはないのに、いつのまにか主流といいますか、勢力の強いものが生まれてしまいます。


より多くの人が、自分にも関連が深いと認めることであるほど、それに関する話がおもてにあげられる機会は多くなるでしょう。で、そのことが、自分にも関連が深いと認める人の増加に拍車をかけます。「身近なあの人も話題にしていたことだから」というくらいの理由で、ある話題に対するそれまでの見え方が変わることもあるでしょう。


同質なもので満たされた場所を前にして、自分自身の手で、その周辺をさらに同質なもので満たす作業に加担する義務なんてないはずです。そんな場所は通り過ぎて、自分の思う場所を目指して歩き続けてもいいはずだと思います。


どこかに、自分が選んだ種のもので満たされた森を、自らの手で育てあげるとか。そういうことをせずに、さまざまな種のものに触れて歩き続ける旅人を貫くとか。同調と加担で満たされた森を、こちらから迎えに行かなくていいはずですよね。




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雑草が、好き勝手に生えたのとは違う。けれども、さまざまの種のものが混在している。植えたその手の持ち主が、自分のセンスか直観か何かで選んだハーブだとか花で満たされた庭。ハーブだって、もともとその辺に生えていた雑草だったという背景を持つ種も多いだろう。庭を編集する感覚。造園の主は、その庭の編集長みたいなものだ。




お読みいただき、ありがとうございました。



青沼詩郎