財布に小銭

 お札ばかりの財布とは限らない。小銭がいっぱい入って、膨らんでいることもある。うまいこと、たくさんになってしまった小銭を積極的につかっていったら、だいぶスリムになって気持ちよさを感じるなんてことはある。なかなか、財布の小銭が完璧に0枚になった、という経験は私にはあまりないのだが、果たしてどうだろうか。


 望む条件を満たすこと。その実現はむずかしい。そこにある条件、出会ったものや人たちが持ってきた条件を飲むことのほうがたやすい。


 きりのよい数字は好まれてみえる。が、具体的な世界がもっているさまざまの数字のほとんどは、きりが悪い。きりのよい数字なんて、むしろ不自然である。それに対して、きりの悪い端数を捨てさせるとか、繰り上がるところまで補わせて、きりよくさせるなんてことをしがちだと思う。


 きりのよい数字だけが気持ちよくおさまる器を用意しがちなのだと思う。そこに、現実の「2人」だとか「チーム」だとか「クラス」だとか「職場」だとか、さらには「作品」だとか「商品」だとか「サービス」だとか「支援」だとか、あれやこれやのあらゆるものをあてがおうとしがちだと思う。そのことで、端数を切ったり、半端な端数が繰り上がるまで何かを無理に変えることを強いられて、しんどい思いをしたり、やぶれたり壊れたりしてしまう人があることもあるのじゃないかと思う。その負担は、人じゃないものにいっているかもわからない。環境とか、自然とか、他の動植物が被害者かもしれない。


 私のような者を「都会の者」と呼ぶのはまず気が引けるけれどそのことを思い切りよく棚に上げたうえで、私のような者でも、ある地方(むこうからしてみれば、こちらが地方だが)に行くと、歓迎されることがある。ただそれだけで歓迎されるのだ、私が果たしてどのようなものであるか、知られていない状態だったとしても。そこには、受け入れてくれる地域の人たちの、「ただ来てくれるだけでありがたい」という思いがある。存在そのものをありがたいと受け入れる姿勢がある。


 ここに、私が、常日頃感じがちな、「はじめから何かを見据える(見据えすぎる)」「想像したとおりのものになる、でっちあげる」といったことへの「つまらなさ」との関連があると思う。


 在るものを、楽しめ。なんて言うのは高圧的で誰も欲しくない言葉だろう。ただ、在るものはそもそも楽しいのだと言いたい。やさしい、でもいいし、おもしろい、でもいい。かっこよくもあるし、かわいくもあるはずだ。いいにおいがしておいしいし、つよくて、頼れて、なんてありがたいんだろう。そう思って生きることにするといいと思うのだ。私が勝手に思っているだけなのでこれもきっと何かの「端数」だし、あなたもそれを持って生きる。持ち寄ってみたら繰り上がって、偶然きりのよい数字になったということはおもしろいかもしれないが、取るに足らない喜びにすぎない。取るに足るような喜びは、もともと端数にもきりのよい数字にも備わっているはずだと思う。


 なんてことで、たいてい私の財布にはいつも、いくらかの小銭が入っているのだ。


お読みいただき、ありがとうございました。