おでんつゆというワンチーム

おでんのつゆは、はじめからその味だっただろうか。


おでんを「鍋料理」ととらえる向きは、あまりないうように思います。


いろんな具材がとにかくあつまって、ひとつの味のもとにまとめられる料理といいますと、鍋を思います。おでんも、鍋料理ですかね。でも、「鍋やるぞ!」といって「おでん」が出てきたら「そりゃおでんだろ!」と私はつっこみますし、「おでんにしよう」として「鍋」が出てきたら「これ鍋じゃね?」とつっこみます。不思議と、両者は、似ているし分析すると同じカテゴリになりそうなものなのに、別物みたいです。


けっこう、おそろしく暴力的な料理にも思えます。だって、ひとつの味(だし、つゆ)にすべての具材を染め上げてしまうのですもの。「お前ら、染まれぇ〜〜」と迫られているような、いないような。それなのに、すべての具がおいしくいただけます。


おでんのつゆは、元になっているものがあるとおもいます。原料は、お水にお醤油とか、塩とか、砂糖とか、鰹節とか、昆布とかでしょうか。ですが、そこに、ひとつひとつの具材の成分が流れ出して、結果的にそれがおでんのつゆになります。「お前ら、染まれぇ〜」ではないのです。実は、「水とか醤油とかの成分しかない私に深みを与えてください。」と、だしの元手のほうにお願いされているようなものです(妄想が過ぎる?)。


具材を入れて煮込む前の「汁」の味ときたら、つまらないものかもしれないとおもいます。いえ、飲んでみた経験があるわけでもないですけれど、シンプルな基本になる調味料の味がするだけと想像します(いえ、じゅうぶんおいしいかもしれません)。そこに、具材の個性のひとつひとつが溶け出して、ほかにひとつとして同じもののない「国」ができあがります。そう、おでんつゆは「国」である。


「継ぎ足し」という手法でおでんたれを運営しているおでん屋さんもあるのじゃないかと思います。すると、そこには、すでに、過去の具たちの成分が含まれています。先輩たちが築いてきた「国」に、新しく生まれる若者たち。迎え入れられる、その人たちが、新たに、じぶんたちの「持ち味」を加えていって、それがまた新時代の「国」をつくりあげていきます。


(「お国柄」みたいなものが、ひとりひとりに浸透して、その人物に影響を与えもするでしょう。それが強すぎると、本来のその人の持ち味をマスクしてしまって、輝きを損ねてしまうことだってありえます。先輩たちが築いてきたそれが、強すぎると。)


33歳の私は、「だし」をつくる立場でもあるし、先輩たちの染み出したドロドロを良くも悪くも受け継いで生きている世代といえるかもしれません。いえ、どの世代だってそうだと思いますが。若い人、子どもたちに「自分たちの成分」が溶け出して引き継がれる自覚を持って過ごしたいと思います。それを、現在の「鍋の中」でやっていかなきゃなりません。


こんな「だし」。


お読みいただき、ありがとうございました。