もっと、喜観を。

子どもができると、子どもを連れて行きやすそうなところに出かけていったりします。そうすると、やっぱりそこには、「あそこなら子どもを連れて行きやすそうだ」と同じように考えた人たちが集まります。で、そういう親たちを目にすることになるし、その親たちが連れてきた子どもたちのことも当然目にすることになります。子育てしている人って、いるもんだなぁなんてしみじみ感じますが、「子育てしている人」なんてものは、大昔からずうっとずうっと、いたはずです。多かれ少なかれ、存在していました。自分がそこに向ける目を持っていなかったから、目に入らなかっただけなのです。


たとえば仕事で企画を出すぞ、いついつまでに出すぞ、というとき、「おもしろそうなものごとを探す目」モードになったりしませんか。いえ、それではもう遅いかもしれません。企画を求められるのが日常だぞ、という意識があれば、随時、おもしろいことを探す目モードです。で、そうすると、ほんとうにおもしろいものごとが入ってくるでしょう。もう「取捨選択が惜しい!」というくらいに、企画の種はどこにでも見出すことができるでしょう。それは、「そういう目」モードで本人がいるから、と言えそうです。


「悲観する」という動詞がありますが、「ああ。どこもかしこも、悲しいことばかり。」と思っていたら、「悲しみの目」モードで世の中を生きていたら、そりゃあつぎつぎに悲しいものごとが入ってくるに違いありません。


たとえば、「ある種類の事件の被害者」という属性に目を向けると、それを意識するほどに、共通項のある情報が入ってくるようになるでしょう。同じ境遇を持った人とも、きっとつながれるでしょう。あらゆる種類のことに、支援団体みたいなものが存在するであろうと言いたくなります。実際には、まだない「共通項」もあるでしょうから(まだない、というのはおかしいですね。存在するのに、あまり目を向けられていない、ということでしょう)、日々、また新たな種類の共通項に目を向けた関係機関が立ち上がったりするのだと思います。


「悲観」するモードだったら、実際に悲観することになります。悲しみたいわけじゃないのに、ということだったら、違う目を持てばいい。「喜観する」は言いませんね。もっと言えばいいのに、もし私以外にも「もっと喜びたいのに」と思っている人がいるのだとしたら。言っているだけじゃだめだから、実際に「喜観」しなきゃだめです。それが浸透して認知されたころに、やっと「喜観する」が一般的になるのでしょう。


似ている言葉としては、「楽観」がありそうです。こちらはすでに市民権を得ていると思いますが、「悲しみ観る」の反対語としてはちょっと違うニュアンスがあるように思います。もう少し、受動的な態度が含まれている感じがします。「喜観」は、やっぱり「観よう」という意思だし、態度です。


お読みいただき、ありがとうございました。