結んで、開いて。

一発の打ち上げ花火のように「おまつり」をやるのでなく、日常の営みの一部にしようとする流れについて思います。何かイベントをやるのは、特別で、たのしいことです。開催本番の日に向けて、注力しまくって準備するからこそ、かけがえのない、特別な、たのしい時間を過ごせるのは、確かにそうだろうなと思います。でも、それで、たのしくやってヨロシクして、それで終わりになってしまうのもどうなのかなと、一方で思うのです。


もちろん、勝手ながら私は、ものごとを終わりにするということにも注目しています。なんでもかんでも始めっぱなし、やりっぱなしで、きちんと「仕舞わない」のでは、じぶんやじぶんたち、近くや遠くにいる人たち、動物や植物たちのもとまでもが、どんどん汚れて、侵されていってしまいます。おしまいがあるから、その跡地にべつのものが始まれます。


と、「お仕舞い」にすることについて話が逸れましたが、さっき言いたかったのは、ものごとをイッパツやってほったらかしにするのではなく、日常の一部に取り入れて回しつづけるみたいに、転がしつづけていくみたいに、「継続してやっていく」ことの価値についてでした。よく、テレビ放送なんかも、単発で終わる番組よりも、「連続」して放送されるもののほうが影響が大きい、なんて話を聞きます。「よく聞く」なんてちょっとおおげさに言ってしまったかもしれません。たとえば、ドラマの原作になった小説だとか漫画の売り上げも、そのドラマが「単発」で終わる放送のものよりも、「連続ドラマ」として放送されるものの方が、跳ね上がる? らしいです。知ったふうなこと言いつつ、私は業界人でもなんでもないのですけれど。


連続ドラマといったって、12週くらいの放送で区切りがある場合がほとんどでしょう。「ひとつの季節のあいだ」くらいにまたがる計画なのですね。ここでの例えはひとつの季節のあいだとしましたが、これが、半年、年間、さらには2345年とどんどん長いほうまで見越したものになったってかまわないわけです。


「とりあえずイッパツやってみよう」と、実践してみないと、どんな反響が得られるかわかりません。ですから、長期化を見越すのは、まずやってみてからでも良いと思います。はじめっから「イッパツやっておしまい」のつもりでいる、つまり「おしまい」を見越してやるのなら単発もいいかもしれません。


ただ、「やりっぱなし」て、何もなかったようになってしまうのは、せっかくやったのに惜しいです。「反省を次に活かそう」というような手あかまみれじみたことを私は言いたいのか? といえば、それもあるかもしれません。手あかまみれじみすぎて、ハイハイと聞き流すのがあたりまえになりがちなことを思います。あと、「実は●●の反省が活かされている」のに、そのことって、誰にも知られていないことって多いなと思います。別に胸を張って言えるような反省がすべてではないでしょうから、それでいいのだろうとも思うのですけれど。できることならば「ストーリー」が「連続していること」がはたから見ても分かるというのも、ひとつ価値あることなんじゃないかなと思います。



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