喃語の爆発

先日、下の息子が1歳になりました。昨年の12日に生まれた子でした。彼が生まれて、まだ1年くらいだというのが不思議でなりません。もうずっと彼のいる生活を続けてきているような気がしています。でも、まだ1年なのです。自分の端末のストレージメモリ一杯の写真をつらつらと眺めていると、確かに1年以上前の写真には、下の息子はまだ写っていません。私の気のせいではなく、まだせいぜい1年なのです。


1歳になった彼の、声の大きいのなんの。盛り上がってフィーバーしてしまったときの狂喜のさけび、その声量はすごいもので、瞬間的な波の爆発に脳天まっしろにさせられる威力です。上には3歳の息子がおりますから、下の息子と2人で盛り上がった日にはそれ以上に大変なことになります。マンション住まいなのですが、近所の人に申し訳なく思います。


下の息子が、よく声を出しています。意味はないのですが、声が出すのが楽しいのではないかと思います。自分の口の形や息の使いかた次第でいろんな違った声が出るのは、楽しいはず。それを、試し始めると面白くて、いろいろ始まっちゃうんじゃないかなと勝手に思っています。 意味はないなんて言いましたが、もしかしたら、ちゃんと彼なりには言いたいことや訴えたいことがあるのかもしれません。意味を伝えようとする意思が、すでに備わっているのでしょう。それらのひとつひとつによっては、私が自分が普段つかう、意味をもった言葉と照合できるものとできないものがあるだけ。彼はたくさんたくさん、すでに「話して」いるのでしょう。 実際、意味を汲み取れたのではないかと思えるようなやりとりも起きています。「あっ、うぁー!」と言ってテーブルの上に手を伸ばすので、その手の方向にある丸っこいスプーンやらフォークやらを取って握らせてあげると、声を出すのを止めるという状況を目にするようなことは、毎日のように起きています。


伝えたいことが具体的にある場合、それを伝えることが、その瞬間の最大の課題であるというのが明らかであればあるほど、それを伝えるためにできるあらゆる可能性の試行に、ヒトは全力になれます。同じ言語を習得している者同士だと、意思の伝達がスムーズすぎて、何を伝えなきゃならないのか、そのさらに先にある大事なことを見失いがちなんじゃないかなんて思ってしまいます。というか、スムーズに伝わってしまうので、暇を持て余して、すぐに横道に逸れるといいますか、すぐに遊び出してしまって、浪費してしまうのです。目の前に持ってこられた、その瞬間だけの誘惑に導かれて、本当に望む方向にいつまでたっても歩みを進められないでいるそんな自分を思います。言葉という道具にこだわって、その蒐集の成果に満足している場合じゃない。ひとつ、自分の習得する言葉なんてものは通用しない世界に飛び込むくらいしたほうが、私は必死になれるのじゃないかと思います。そう、必ず死ぬのだから、「すぐには死なないかもしれない」なんてぼんやりするのは人生もったいないんじゃないかなんて、口で言うのはスムーズすぎますね。


私たち親や、上の息子がすることを下の息子はよく見ていて、真似して同じ仕草をしてみたり、なるべく似せたような声を出そうとしていたりするのが観察できます。反対に、下の息子のしたことだとか出した声だとかが面白くて、私や上の息子が彼の真似をしてみせると、たいてい楽しくなって盛り上がります。そんな賑やかなお正月の連休を過ごした我が家なのでした。



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