志望動機

おれはだめだとか、あれもこれもできないだとか、つい言い過ぎてしまいがちです。でも、そういうの、あんまり良くないなぁとふと昨日思っていました。だって今の自分は、それらの上に立っている。というか、そんな風に「だめだ」と否定する自分だって、全部今の自分に含まれているのです。だから、かつての、これまでの自分を否定するのは、私は偽りの存在ですとか、偽者でしたとか、絵空事の登場人物ですと言っているのに等しい。じゃあ今、壇上でしゃべっているお前は誰なんだと言われたらそれまでで、そんな嘘は見え透いています。見え透いた嘘をつく意図があるのなら百歩譲って別かもしれませんが、いったいどこにそんな意図が有効にはたらく場面を見出せる? 私にはそんな場面は考えられません。いくら、私から至らない部分が消え去る見通しが未だ立たないといったって。


自分を変える強い動機になるものって、自分では変えられないことが中心なのではないでしょうか。環境による条件とか、社会の大きな変化とか。私はいま、自分の身の振り方を悩んでいます。いえ、悩むというよりは、考えている。あれこれ、どうしたらいいか、どうすればどうなれるかを考えています。そのためにはどうしたいか、どうなりたいかをまず決めなけりゃ、どうやってそれに近づいていくかが決まりません。ひとつには、ずっと今のままじゃいられない事情が自分の身に差し迫りつつあること。少し前までは、今よりも気付いていないことが多くて、そんなに「今のままでいること」を拒む理由もないかなと思っていたのですが、いろんなところへ行っていろんな人に話したり話を聞いたりしているうちに、これはいよいよ変わるべきときが来たと強く思うようになりました。これまでには手を伸ばさなかったようなタイトルの本を開き、これまでにはわざわざ行かなかったような集まりに参加し、あてにできる情報もあてにできない情報も同じくらい溢れてごった返すネットの世界をうろうろし、それらを踏まえて考えています。どうしたらおれ、やれるかと。


一年前の自分とは明らかに変化しています。年の変わり目も迫ったこの時期に、そうした自分の変化をきちんと自覚できるのは、この一年間にしたことがちゃんと積もって自分に「含まれている」証拠なのだと思います。


後ろを向きゃあ、前が見えなくなります。でも前を向いていると、自分が引きずっているものに気付きにくくなります。重さや抵抗を感じたら、何かある。そう思って振り返って見てみると、あのときの自分のしたことの結果が地面との間に摩擦を起こして足を引っ張っている。そんなこともあるかもしれません。


自分のしたこと、今もまさに「持っている」ことは、自分の後ろ側に引き連れるのではなく、前側に積んで押して歩くようなイメージです。あるいは、両の手で持っていく。あんまり多すぎても持ちきれない、荷物がかさんで前が見えない、押して歩くにも重すぎて進めない、といった事態を招くかもしれません。何を連れて行くか、持って歩くかは、限られる。余計な分は、どこかに置いていくしかない。そういうものは、どうしても出てきます。必要なときに再訪できるように、わかるようにして置いておくことで、自分の身を軽く、より自由にしておけるかもしれません。それで、どんどん好きなところに行けばいい。今年の残りと来年も、そうするつもりです。


お読みいただき、ありがとうございました。