魂のありか

よい試合は勝つか負けるか最後までわからない試合、といったところでしょうか。「よい」とする定義もそれぞれかと思いますが、最後までわからないからこそ、その展開を最後まで追いたい、じぶんの人生の時間を費やしてでも沿い、見守り、一緒に輪に加わってやり続けたい、そう思うのではないでしょうか。だから、そういう観点で、戦いだったり試合だったりゲームだったりを「よし」とするのもありなんだと思います。


よく、一回の「ヒット」を出せても、「ヒット」を出し続けられるとは限らないということが言われそうです。ぼくの口でも、そのうち言うかもしれないし、今までも言ったかもしれません。一回だけ勝負して勝てば勝率100%ですが、10000回勝負するときは10000回勝たなきゃ100%は保てません。


ある人にとって10回中10回勝つのがむずかしいとき、20回チャンスをやるからそのうち10回勝てと言われれば、できるかもしれません。それが30回中、40回中の10回となれば、どんどん達成は現実的なものになるでしょう。ヒットの絶対数を稼ぎたいのなら、勝負の回数の分母を大きくするのは、達成を確実にするひとつの手法かもしれません。もちろん、下手な鉄砲も下手すぎては、弾を調達するコストが徐々に首を締めるかもしれませんが。


成功談は好まれます。失敗談も、なんだかんだ笑えるオチのつくようなものは好まれるかもしれませんが、ほんとうの失敗の多くには、そんなサービスがつかなくて、笑えないしオチもないんじゃないかと思ってしまいます。だから、水面に浮かんでくる成功談や失敗談のほとんどは、どうでもよい暇つぶしのネタくらいにしかならないんじゃないかななんて辛辣?なことを思います。ほんとうに大事な成功経験、失敗経験は、その人の胸に秘められる。墓場までそのままです。その人がやったことで評価されることが仮にあったとして、その人の成功や失敗の裏にはこんなことやあんなことがある、そういう背景を知っておくと、それらの成功や失敗を理解できるし、われわれにとっての教訓ともなる・・・・・・などというのはじつは大マチガイで、ほんとうにほんとうの教訓は、その人の中にしかない。その人にとっての教訓とは、その人のみに対して教訓となりうる。いえ、教訓とは、みずから築いた、みずからに対してのみ有効なノウハウのことなのかもしれないな、なんて思います。


だから、いっぱい勝負して、勝ち(成功)と負け(失敗)の絶対数をたくさん稼いだ人ほど、ノウハウを持っているはずなのだと、今の私は思うのです。隠し持っている。決して、人がその要因と指摘するようなところに、それはない。ノウハウだとか教訓だとかいうことばも、実はしっくり来ていません。それは、ハートか、こころか。心臓か、尊厳か。人間そのものという気もします。共有できない、固有のもの。それでいて、みんなのものといいますか、その境目もないのかもしれません。魂、みたいなもの?


お読みいただき、ありがとうございました。