スジナシの聞き書き

人の話を聞いて、書くということをしたことがあります。仕事で、ある機関の広報紙の1面記事を編集したときのことです。


取材対象にどんなことを聞こうか、アテをつけて行こともあるのですが、結局そこで用意した質問は、オマケみたいなものになり、最後に聞きそびれたことはないかと儀式的に聞いてみるだけになってしまいます。謝礼の振込先を用紙に記入してもらうようなものです。


結局、その取材対象の人の日常のなんでもないことを聞いていくなかで、その人が見えてくるものです。たとえば、自然について詳しい取材対象の人に自然について語ってもらおうとなった場合でも、なんでもない切り口から話を始めて、雑談のような対話を重ねていくなかで、ああなるほど、そういうことで自然にお詳しくなられたのですね……などということがわかってくるようです。


いきなりそのプロセスをすっとばして「では、自然について語ってください」とお願いしたところで、「それは構わないけれど、語ったところで君にわかるの?」となりかねません。相手だって、じぶんのことを理解しないものに話す気にはなれないし、そんな状態でいい話なんて聞けるわけがないでしょう。


なんでもない話を重ねていくなかで、何を話すかの自由さが保証された雰囲気の中で、向こうが素のこころをこちらに向けて語りかけてくれたことのなかに、これは僕がいちばん聞きたかったことだし、きっと他にもこの話が響く人は多くて、たくさんの人にとって有益な話なんじゃないかということが含まれているものです。


偉そうに言えるほどの経験も実績もない僕ですが、聞き書きというものについて、そんなことを想起します。


ある料理をつくるのに必要なものを、調理に取り掛かる前から見定めておいて、必要なものを必要な量だけ用意し、きっちり使い切ってあらかじめ決めておいたメニューをつくる……というやり方も、ものごとにはあるでしょう。聞き書きというのは、そういうものとはいくぶん違うものなのかもしれません。


うまいたとえが見つかりませんが、どこまでも共同作業であり、答えのない旅のようなものにも思えます。そのときそのフィールドにある材料を用いて料理をしたら、結果的にそのようになったというような……また違う機会に、違う聞き手が時間を共にしたら、まったく違う味わいの料理になるでしょう、たとえ、似た食材を用いる結果となったとしても、どうして同じ材料がこうも違った食感になるものか!  といったような具合に……


用意されたもので決められた答えを回収してまわるだけならば、この目も手も頭も足もいらないのではないか……わたしのざらついた声で、あなたに問いかけたからこそ、まぁそれは置いといて、いいお茶があるんですよ……なんてお茶が出てきて、広がる話もあるかもしれない……なんて思います。


お読みいただき、ありがとうございました。