腹囲と頭囲

どんなに好きな食べものでも、そこまでは食べられないと思う。自制心がはたらいて、ほどほどでやめてしまうだろう。満腹感のほうが、先にやってくる。


32歳にしては、じぶんはよく体型を保っているほうだと思う。僕には5歳年上の兄がいるが、彼のおなかは(服を着ている状態では気にならない程度ではあるが)少しばかりの余裕を蓄えているといっていいご様子だ。僕も彼と同じ年齢になるころには、おなかに多少の余裕を蓄えた姿になるのかしらと思い続けて、もう10年以上が経過した。未だに僕のおなかには、そのような様子はみられない。


情報を食べすぎる世の中になったと思う。最寄りのコンビニエンスストアに出かけていくことよりも簡単に、情報が得られるようになった。家の中で、手の届くところにある端末からいくらでも情報が得られてしまう。


人間がつい食べすぎてしまうのは、古い時代の生き残る本能の名残だ……というような論理を聞いた回数は、これまでに1度や2度ではない。


情報をつい食べすぎてしまうのも、じぶんが「弱者」となって、淘汰されることをおそれる本能なのかもしれない。


ただ、じっさいは食べ過ぎなくても生きていかれる。むしろ、食べ過ぎないほうが良いかもしれない。


僕がいきなり時間や場所を飛び越えて、過酷な自然環境の中に放り出されたら、命が危ないかもしれない。おなかに余裕を蓄えていないから、飢餓状態になるまでの猶予が平均的な人間より短い可能性がある。しかし、実際はそのような時間や場所の転位は起こらない。のうのうと安全な場所で生きている。


必要のないものを蓄えることは、コストを増やすことでしかない。有利にはたらかないものを保持することに支出を続けるようなものだ。


偉そうなことを言っておいて、僕が必要ないものをばさばさ切り捨てて無駄なく生きているかといえば、まったくそんなことはない。ぺったんこなのは、おなかだけである。情報という食べものについていえば、ついついとりすぎてしまいがちだと思う。


たくさんの運動をするときには、たくさんのエネルギーを食事から摂る必要がある。情報も、消耗が激しい場合はたくさん入れないとならないだろう。そのバランスが釣り合って入れば問題ないはずだ。


なにかとシェイプアップしなければならないという脅迫観念があるかもしれない。あなたの場合は、それくらい日々動いているのであれば、これくらい摂っても大丈夫ですよという適切な量を見極めるのは意外と難しい。


僕は、実際はそんなことはないのに、じぶんのことを「摂りすぎるほう」と思い込みがちで、おなかのほうだけではなくあたまのほうにも、ほんとうは余裕がないのかもしれない。おなかのほうは目視で確認できるが、あたまの余裕の有無の判断は目視できない。


じぶんのあたまの「中」をみつめる、観念的な「目」があればいいのに。


お読みいただき、ありがとうございました。