旅せよ愛子

わたしには息子がおります。上(2歳)、下(3か月)の2人です。可愛いです。


でも、ほっとくわけです。もちろんいつでもそうではありません、世話をすることもあります。妻がたくさん(常に)接してくれているので、わたしがそんな程度の意識でいられます。


「可愛い子には旅をさせよ」という言葉がありますが、この「ほっとく」意識が、息子たちに旅をさせることにつながるのではないかと思います。いつもそんなことを意識の表層で思って「ほっといている」わけではありませんが、案外このスタンス、すなわち他者と接する姿勢が、わたしの根底にあるのではないかと、まじまじと思います。


そう、「他者」と接するときのスタンスですから、「他者」のところには息子たち以外にもいろんな人が入ります。わたしの他者と関わる際の基本的なスタンス、「勝手にどうぞ」です。裏返せば、「わたしも勝手にやるからね」といったところでしょうか。


みんな勝手に好きなところへ行くわけです。あるいは、いつまで経ってもおんなじ場所で似たようなことを繰り返すかもしれません。それも「旅」みたいなものかと思うと、わたしは、おのれにも他者にも「どうぞご自由に」ということで、常に「旅」をさせているようなものです。


ここでいう「旅」とは自発的なものですが、他者から課せられる「旅」ってあるでしょうか?


結果的に「課せらている」と評価できるようなことでも、めいめいが「好き」に、「ご自由」にした結果選びとられたことの過程にあることだとしたら、それもまた「旅」の一部といえそうです。でもそれは広い意味で「自発的」に含まれることになりそうですから、やっぱり他者に強いられてさせられる「旅」なんてものはないのかもしれませんね。


目にするもの、遭遇する他者、刻々と変わる状況に、反応するめいめい。その連続。間断ないひとつづきのまとまり、それが「わたし」であり「あなた」であり、一人ひとりが旅をする「可愛い子」といったところでしょうかね。


お読みいただき、ありがとうございました。