Fruit -老成と未熟さのあいだに-

愚直なまでの繰り返しかある。楽器を弾くとき、わたしは来る日も来る日もおんなじ、音階を弾く練習をする。そのことが実を結んだとも未結実ともわからない。でも、ひたすら練習せずにはいられない。この道の先に、何があるのか。


愚直なまでの繰り返しにおいて、革新がないとも限らない。でも、まぁだいたいないだろう。


これまでのわたしの考え方や価値観に即したおこないとは、まるで違うことを言ったりやったりしたら、わたしの身の周りの人は驚くかもしれない。けれど、革新のその地にこそ、腹落ちする穴がある。革新は、腹落ちの引き金なのだ。わたしは、その地に足を踏み入れる来訪者でありたい。その地における礼節やら、文化や風習なんかの最低限の知識程度のものくらいは事前に備えてから……などと思ってしまうのが、わたしの潔くないところである。


すでにあるもの、すでにやられたことをあーだこーだいう時間が、もったいないとする。


限られた時間、どうせ過ぎるなら、他人のやることにあーだこーだいうより、自分のやりたいことを語ったほうがいい、と。


人のアイディアや考えに嫉妬することが、わたしにあるだろうか。それが自分でも思いつくようなものだったとしたら、一瞬先を越された悔しさの閃光に打たれるとともに、他人の思いつくような思考をした自分のいたらなさ、未熟さ、恥ずかしさが湧き出し、変わろうとするのではないかと思う。


そうか、その悔しさは、経験の代理なのか。


自分でやってみて、反響を受け取って経験とすることを、一瞬でインスタントに得られてしまう……他人に先を越された悔しさには、その価値がある。自分が成功したり失敗したりする時間を請け負ってくれた点について、感謝すべきなのかもしれない。悔しさは、ありがたさの裏返しなのだ。


いろんな、段違いな世界がある。自分がいまいる平面だけにずぅっと立ちっぱなしじゃあ、見える景色に飽き飽きするのも当然だ。私は、どんなことにでも興味を持ちたいと思う。


「昨日の俺なら、読まねぇわな」ってな本を、どんどん読みたいと思う。自分が成功したり失敗したりする時間の先を越してくれているそれが、本にはたくさんあるだろう。その悔しさと一緒に、知識やノウハウや論理やらをありがたく受け取って、自分の時間をつかって何をするかだ。そこで成功したり失敗したりした経験こそが、他人にとっても価値を持つのかもしれない。


老成と未熟のあいだを行ったり来たりするあいだに、人間の生がある。




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