小窓口業務はつらいよ

僕らの、習慣のようなもの、良かれと思ってやっている一切のことなどを誘導している機構が、どこかにあるのだろうか。


守るべきもの、沿うべきものを決めておくことで、逐一思考し、選択・決断することを省く機構が、どこかにあるかのようである。


発信のインターフェイス。受信の窓口でもある。昔井戸端、こないだテレビ、いまネット、といったところか。(井戸端は、今もある。……いや、ないか?)


なにかと、そうした誘導に作為を感じ、それに背こうとしてしまう。流されまいとしてしまう。それは、インターフェイスの主流が井戸端だった時代にも、テレビだった時代にも、ネットだった時代にも通用するような、すなわち、インターフェイスの種類に左右されない生き方をしたいと僕が思っているからかもしれない。それゆえに生じる、あらゆる摩擦を受け入れながら生きている。いつそんな覚悟を決めたのかわからないが、いつのまにかそうなった。


朝起きたら、窓口をガラガラと開ける(インターフェイスの電源を点ける)どころか、そもそも窓口を閉めてさえいない(いちいち電源を消していない)人も多いだろう。夜眠る前に、スマホの電源をいちいち切る人っているだろうか?(多からず、どこかにいるだろうが)  パソコンも、僕はシャットダウンではなく「スリープ」で仮に閉じておくことが多い。コンピュータには余計な負担をかなりかけているかもしれないと思う。コンピュータ、すなわち窓口である。こんなところでも、窓口業務はつらいよと思う(ほかにどこやねん、と詮索しないこと。想像にお任せする)


情報の出入り口をぴしゃんと閉じて、地球のまわるのにのみ、心を傾けて生活してみたい。太陽が出てみえたり、隠れてみえたりして、四季が巡りゆくことのみに、注意を払って生きてみたい。


でも、僕はそうしてこなかった。それが、人類の生き残り戦略だったのだ。きっと、弱いからだろう。服を着たり、家を持ったりすることなしに、冬の東京で生き延びられる気がしない。この服も、この家も、僕以外の誰かが作ってくれたものだ。僕には作れない。その技術もない。頼り合うことで、適応したのだ。


過剰だなぁとか、こんなのおかしいのになぁといったような風潮を感じることがあるかもしれない。そのことが、僕たちが生き残るために必要なことだったら、この先もいくぶん続くだろう。生き残るために必要というか、あとで振り返ってみたときに、あのときそのようにしたことが、生き残りにうまく作用した、というだけのことだ。


目先の流れに働きかける、でっぱりのようなものがあるかもしれない。そうしたものにつっかえたり引っかかったりして、流れて行けなくならないように、なるべく大局的な流れを遵守しよう、沿うようにしよう、というのが、僕の戦略なのである。あるいは、流されないように引っかかっていよう、ということなのかもしれない。


集合体の中枢は、どこにあるんだろう。どこにでもあるし、どこにもないみたいだ。ある部分に中枢を見出すことはできても、どこか一箇所にその居場所を特定することはできない。


窓口をひらくことは、中枢を見ようとする行為なのかもしれない。その結果、下を向いて小窓ばかりを食い入るように見がちになってしまったことが、やはり僕には、ちょっとおかしく思えてしまうのだ。




最後までお読みいただき、ありがとうございます。小窓を通してますか?(僕はそう)