1000字中の「残り氏」

「良いお年を……かもですね」


昨日私は、職場で会ったある人たちに、そう声をかけてその場を辞去した。


その年が終わるという区切りに、どれだけの意味があるのか。ずっと途切れることなく、続いているのに。一連のものなのに。




終わりがない。


あるのかもしれないけど、見えていない。


見えていないことには、あとどれくらいの「残り」があるのか、わからない。


わかろうとすればわかるのかもしれないけれど、「残り氏」のほうが自分からやってきて、


「あと、〈残り〉はこのくらいですよ。たとえば、〇〇と××と△△と◻︎◻︎…………くらいのことをやれば、ちょうど〈残り〉がなくなるくらいですよ」


なんて教えてくれるなんてことはない。


だから、必要に応じて「残り氏」の役割を、自分で果たさなければならない。あるいは、その役割を果たしてくれる誰かとの関係を築かねばならない。


「残り氏」の役割が必要だなぁと思うのも、また自分自身である。自分がその必要性を感じないことには、自分が「残り氏」になろうとは思わないし、自分がならなくとも「残り氏」の役割を果たしてくれる誰かを雇おうとは思わない。


でも、「残り」は有限だ。


無限かのように見える広大な海を生きながらえるために、指標・道標、ランドマークとなってくれるもの……それが、たとえば「年」という区切りなのかもしれない。1年間が12か月でなくて、もっともっと長かったら、どうなるだろう。


いつも行き当たりばったりな私には、あらゆることに見切りをつけるのが困難になるかもしれない。


いつくらいまでに、どれくらいのことをやるべきか。


現実的に、それは可能か。


それは、そこまで優先されるべきことかどうか。


そういったことを考えるための、「定規」みたいなもの。それが、例えば、「1年」なのかもしれない。


定規を放り出して、遊んでいるときは、楽しい。


そういう瞬間のために、生きているとさえ思う。


広い海に、みみっちい定規をあてて、ここからここまでが何センチ、なんてやっていることが、ときどき馬鹿らしくなる。




遊んでいるときは、真剣だから。




最後までお読みくださり、ありがとうございます。


ネットが、「良いお年をお迎えください」とか言っても言わなくてもいいような世の中になることを助長している……と、言えなくもない。