Lifekeeper

新しい何かに興味を持ってみるけれど、あれこれ理由をつけて、問題やらリスクを探して、結局それまで通りの生活を続けてしまう……これ、まさしく自分のことだなぁなんて思います。

今すぐ解決できない問題を後回しにして、今できる方法で何かを始めるというのは、実直な姿勢だし、シンプルな解でありながら、僕にとってなかなか真似できないことだったりします。あれこれとやらない理由を見つけては、現状を正当化してしまう。そんな自分に嫌気がさして、ヒントを探す。そして出会うと、ふむふむ、ほう、むむ、おお!  これは自分の役にも立つかもしれない、自分にもできるかもしれない!  とそのときだけは気持ちが上を向きますが、知識未満の情報を入れただけ。結局現状を何も変えられないで、それまで通りの生活に戻っていく。……で、また嫌気がさして……てなことを100回繰り返したか1000回繰り返したかわかりません。

言うだけ、聞くだけ、見るだけ、さわるだけ……そうした「だけ」だけでは、何かを変えられない。寄り道まわり道をさんざんした上でようやく思い知ったそんな馬鹿単純なことを、日常の生活サイクルの煙に巻かれてまた忘れてしまい、また「だけ」だけを積み重ねては思い知り……。

「変わらない」ということは、本能的に安心なのではないでしょうか。周囲からさまざまな刺激を受けつつも、それまで通りを保とうとする人が一定数いることは、自然なことではないでしょうか。そうした人たちに劣等感を植え付けて、安心を焦りや不安に変えさせて扇動し、多かれ少なかれ搾取をするような機構が社会にあるということを完全に否定できるでしょうか。「それは変われないあなたたちの甘えです。一生そうしていればいいでしょう」なんて言われたとしたら、雑言として聞き流せばよいものをそれに耳だとか胸だとかを痛めてしまうのは僕だけでしょうか?

変わり続けるのみだったとしたら、それは「変わらないでいること」ができないことになります。そんな論証の応酬がしたいとも思いません。変われるか変われないか、そのどちらかしかないかのように語ることの脆弱さを思います。

意識を変えても、行動しなければ何も起こりません。動けないではなく、動かないは好ましい。動かされるではなく、動くが好ましい。流されるでなく、流れるが好ましい。僕は「変われない」のか、「変わらない」のか……。

口に出して言えないことは、やれない。
口に出して言わないことは、やらない。
口に出して言えることは、やれる。
口に出して言うことは、やる。