すべては「きなこ棒」にキス

毎日駄文を撒き散らしてスミマセン。読んでくださっている方がいたとしたら、その奇特さに敬服いたします。これはなんのビジネスでもありませんし、読まれる方になんの得があるのかもわかりません。誰の利害にも関わらなければ、自分を包み隠すような理由も見当たらないはずなのですが、そのときによって、何か文章に持たせる「体裁」みたいなものを意識して、裸の自分に服を着せているような部分があるかもしれません。


それにしたって、着せられるのはせいぜい「服」くらいで、自分をまるっとすっぽり覆ってそのフォルムさえもわからなくしてくれるほどのものでもありません。駄文の書き手の駄人(だびと?だじん?)さは、隠せるようなものではないのでしょう。仮に隠せたとしたら、そのとき、その文章はきっと「自分の文章」ではなくなっていると思います。


仕事として、お金と引き換えに一定量の「文章」を書いて渡すなんていう機会は僕にはないですが、仕事の一環として、ある組織の広報紙にはめこむための短い文章を考えて書くということはあります。その性質上、その文章の書き手・語り手はあくまで「僕」ではなく、集団としてのその「組織」が一人称になります。組織として差し障りのあるような表現や語り方は、組織として正されてから発行されますから、そこには「僕」という個人の影が色濃く出ることは基本的にはないはずなのですが、不思議とやはり自分が書いたものは自分が書いたもののように思える「何か」が残る気がします。もちろん「僕」自身もあくまでその組織の一員ですから、当たり前かもしれません。


文章に混ざる「書き手」を完全に消すことができないというのは、音楽においてもまったく同じことがいえると思います。ことに「歌」なんてものは自分の声が主成分なわけですから、隠れようがないのかもしれません。僕自身も歌う活動をしているのですが、一度「合唱曲」の仮メロディ録りにチャレンジしたことがあります。その曲のメロディや歌詞がどんなものか、これからその曲を歌う人たちに伝えるためのものでしたので、「僕」が自由に解釈して表現した個人の雰囲気が出すぎてしまっても、「仮歌」としては失格です。作曲者の方と何度かやりとりしながら、トライアンドエラーを重ねて、歌い手として持てるものをすべて発揮して歌い直しを繰り返しました。作曲者の方の意図するニュアンスに近いものを最終的にはどうにかこうにか録ることができたのですが、身内の何人かに聴いてもらったところ、「初めのやつ(僕が好き勝手やったやつ)が一番いい」とおっしゃる声がいくつも上がり、僕は自分の自由な解釈を認めてもらった嬉しさと、作曲者の方の意図に沿う表現のために難儀した自分の「歌い手」としての情けなさ・力量のなさの板挟みにあい、複雑な気持ちになった経験があります。


駄文を書き、駄歌(だか?)をひねる、駄人の僕が菓子を焼いたら、それは駄菓子でしょうか。思い出の駄菓子の味みたいなものを一生追い求め、表現しつづけるそう、僕は駄菓子屋なのかもしれません。あるいは、工場でそれをひねり出しつづける機械の方か。中には、手作業でつくられるものもあると聞きます。きなこ棒って、美味いですよね。