飛べない、ペンギン。眠れる、僕。

「積極的退化」なんてことがありそうですね。いまの環境や現状に適応するために、これまでできた何かをしなくなり、自分自身のすがた・かたちが、そのようになっていく、という…。

ペンギンは、飛びません。彼らの祖先は、飛んだんでしょうか?そのへんは僕にはわかりません。空を飛ばない彼らですが、泳ぎが得意でしょう。飛べるようになることをひとまず進化と呼べば、飛べなくなることは退化といえます。その結果、泳げるように進化した。その方が、彼らにとって都合が良かったから。…真実はそんなに単純じゃないかもしれませんが、これはもののたとえです。

僕ら人間、生きていくうえで、いろいろと知ります。できることもできないことも、知るのです。経験を重ねると、それらに関する「思い違い」が減ってくるのかもしれません。これくらいのことはできる、それほどにはできない、といったことを。

たとえば何かやりたいことがあるとして、やらなければならないことにたくさん時間をとられている現状があるから、もう食事でも睡眠でもとことん削ればいい…その時間を使って、自分は何でもできる!というのは、若い思い込みです。いえ、若いがゆえに、一時的にどうにかなるのかもしれませんけれど、そんなことは無茶だということを、やがては知るでしょう。一時的にどうにかなっているときだけに着目していえば、それは確かに「できる」の部類に入るのかもしれませんが…

経験を重ねると(あるいは老いる・若くなくなると)、少なくともそうした無茶は、「いつでもできることではない」というのが真実だと知ります。「できる」ときは、ごく限られているのです。…だからこそ、「できる」ときにやるのかもしれませんが…そうした無茶ができてしまった時期を経てからは、きちんと整ったリズムで生活することを重んじて、実行できるようになったりします。これは若いときにはむしろできなかった、という人もいるかもしれません(逆もあるかもしれませんが)。無茶が利くんだから、利かせないなんてつまらない。利かせなかったら退屈で、いてもたってもいられない…といった具合に。

一時期にのみ可能だったことを、過剰に賛美することはありません。かつての無茶を懐かしむことで気持ちが豊かになるのなら、それも良いでしょう。「できない」ことを悟ること、何かをあきらめることは、前進でもあります。少なくとも、「今までは無茶だったという事実を認めること」は、それまでの自分にはでなかったわけですから。それをふと、「積極的退化」なんていう言葉でいい表してみる。もうちょっとましな表現がありそうですが…

どうにもならないことは、どうにもならないことをまず認める。ソッチの方向には進化がのぞめないと知ることで、別の方に向かって歩き出すことができます。そうするよりないから、そうなるのでしょう。