21日 6月 2018
地域のおじさん、おばさんたちが公共施設だとかちょっとした調理が可能な場所に集まって、食事やらなんやらを見ず知らずのその地域の子どもたちにふるまう。なんなら、その食事を一緒につくるところからやる……「子ども食堂」と言われるような取り組みが全国に浸透して、だいぶ時間が経ったと思われるこの頃です。...
20日 6月 2018
新しい何かに興味を持ってみるけれど、あれこれ理由をつけて、問題やらリスクを探して、結局それまで通りの生活を続けてしまう……これ、まさしく自分のことだなぁなんて思います。...
19日 6月 2018
ある編集者の方から、新しく出版する本の企画を立てるとき、「対象とする〈読者〉はなるべく絞ったほうが良い」ということを聞きました。読者を絞って本をつくると、その「刺さる深さ」みたいなものが予想以上の反響につながり、より広い層の手に渡る結果となることがあるそうです。また、企画を立てた当初に想定した読者像とは、かけ離れたパーソナリティを持つ人たちに届くなんてこともあるそうです。(僕のうろ覚えなのでねじ曲がりがあるかもしれませんが、そんなような話を聞いたことがあります。) 何か世の中のことをざっくり「総じて」とらえ、論じたりする(つまり「面」として把握し、扱う)だけでは、結局のところ、いかなる人の心の扉の中にも入っていけないのかもしれません。それより、たったひとつの事例(つまり「点」)でよいから、身をもってひとつながりの具体的なストーリーを経験し、それに基づいたアクションを考え、実践していくことが、結果的により多くの人の心の扉をひらくことにつながるのではないかと思います。 個々人の生活には、美しいことも醜いこともたくさん含まれています。かっこいいこともかっこわるいこともあります。胸を張れることもあれば、恥ずかしいこともあります。規範的なこともあれば、うしろめたいこともあります。どんなことにも、表があれば裏もあるのです。ひとつのことを語るときに、表のことだけではなく裏のこともしっかり語ることが、その「語る」というアクションをより広く深く届けることにつながるのではないかと思うのです。 個人の範囲でそれをするというのは、なかなか勇気のいることです。だって、自分の恥ずかしいこともうしろめたいこともかっこ悪いことも言いたくないことも、全部あけっぴろげにすることになるからです。自分がそういうことをすると、自分のごく身近な人を著しく傷つけたり、不快な思いをさせてしまうのではないかと、僕は心配になるのです。 匿名や筆名でそういうことをおこなえばよいのかもしれませんが、語られる内容が具体的であるほど、身近な者には勘付かれる可能性が高まります。また、それほどにエネルギーを注いでおこなう取り組みを、目につくほど身近にいる者に対して隠しきれたものではありません。自分のことを深く具体的にあけっぴろげにすることは、どうやっても身近な人を巻き込む結果になるのだと思います。 だからといって抽象的で表層にとどまった表現に逃げる(ここではあえて「逃げ」としておきます)と、結局またどんな人の心の扉の奥にも入って行けない…ということが起きてしまいます。僕はふと、そのことに息苦しさのようなものを覚えることがあるのです。それはつまり、僕自身が自分の心の扉を固く閉ざしていることの表れなのかもしれません。 誰かの心の扉の奥に踏み入ることが、必ずしも正しいわけではありません。それが良いか、好ましいかどうかは、場合によるでしょう。自分に置き換えてももちろんそうで、入って来てほしくない扉もあれば、もっと開いて来てほしい扉も数多くあることに気付きます。 いきなりドアノブに手をかけてガチャガチャと揺するのではなく、まずはコンコンと軽い音を立ててノックしてみる……そういったマナーを守ったり配慮をおこなうことで、いきなり取り返しのつかない事態を招くことを避けられるのかもしれません。ただ、それがいつでも最適かどうかはわかりません。幾千の扉をおくゆかしくノックして、何も返事がないというのを繰り返すうちに疲弊してしまい、一人の人生を押し流すなんて造作もないほどの力をもって、「時間」は流れます。 ……「ここだ!」と思う扉があったら、こじ開けてでも入るべき。そんなことはきっと人生に何回もないだろうから、自分を信じて、失敗すればいい…… そんなひと言を、僕は自分の心の扉の前に黙って置いて去っていく。結局のところ、扉というのは開けられるものでなく、自分でひらくものなのでしょう。
18日 6月 2018
街の中。どこにいても見かける、スマホいじり。まるでどこか「本部」からの指令を受け取って、それに従って行動しているかのように見えなくもない。主体性のない操り人形のようです。SFみたいですね。そんな世界が現実であり、自分もまたそこにいて、こうしてスマホを見つめながら指先でつつくということを毎日ひっきりなしにやっているわけです。操られているように観察されても、仕方ありません。 「本部」があるとして、それが何なのか考えると…何なんでしょうね。クラウド? 電波そのもの? 常識みたいなもの? 規範意識? (スマホがない時代にも、「本部」は存在したんでしょうか?) それぞれにそれぞれの「本部」が存在していて、似たような通信機器を使って四六時中交信しています。ある人の「本部」は友達(ときに個人、ときに集団)、ある人の「本部」は仕事仲間、ある人の「本部」は恋人(あるいはそれ未満)、ある人の「本部」はオカン・オトン。 はじめは「個」どうしの連絡のやりとりがメインだったでしょうけど、SNSが登場したことで「多」対「多」が当たり前になりました。友達も恋人も、会ったことのない知らない人も、憧れのあの人も目障りなアイツも、みんなみんなひっくるめて「本部」になりました。 「本部」とは何か。もう一度考えてみると、「つながり」だとか「関わり」そのものでしょうか。みんなみんな、多くの人が、つながりや関わりを持たずにはいられなくなっている。そんな状況に思えます。……無理に持たなくとも良いはずでは?…… 通信機器を持たずに、厭世的に過ごしているかのような人も稀にいると思います。そういう人にとっての「本部」って、なんでしょう? 「自然」でしょうか。あるいは、それを含んだ「世界」そのものでしょうか。規模を広げてその時の文脈にとって都合の良い極端な解釈に走りがちという自分の思考のクセをわかっていながらもあえて続けますと、どんな人も必ず、世界とつながり、関係して生きています。そのつながりや関係の深さはそれぞれあるでしょうけれど、必ず何かしらの影響を与えあっているはずです。影響を与えあうことなしには、存在できません。ですから、スマホをいじって生活している人でも、本当の根本的な「本部」は世界、宇宙、自然そのものだと思うのです。でも、スマホをいじる多くの人の認識する「本部」の位置は、いくぶん(だいぶ)末端側に寄っているように思えます。「端末」を操作することでつながりや関係の構築を達成しようとするから、そうなるのかもしれません。 「本部、そんなに狭くねぇぞ」「もっと広いぞ」「いろいろあるぞ」「どこにでもあるぞ」「君自身も本部の一部だぞ」「自由だぞ」「かたちもいろいろだぞ」……とまぁ、自分も含めて言ってやりたい「本部」についてのことがいろいろと浮かびます。 こんなもん(スマホ)捨てても、決して「本部」はなくならない。
17日 6月 2018
考えたことを考えたとおりに再現するだけでは、つまらないのではないかと思ってしまいます。もちろん、ゼロから生まれた「1」は、しっかり具現化してやるべきかもしれません。しかしその「1」を「10」だとか「100」だとかに膨らませるのは、実際にやってみたときのなりゆきが大きく影響してくるのではないでしょうか。もちろん、そのなりゆきが最初の「1」を変質させてしまったり、せっかく踏み出した一歩目の方向性をまるで無視したものになっていないかを常にモニタリングしながら、取捨選択を行なったうえで「1」を「10」や「100」に膨らませていく、…というのが、人間が発想したものを形にしていく工程のおもしろさなのではないかと思います。 僕は歌ものの作曲をするのですが、まず「弾き語り」として独りで演奏できる形を目指します。これが、映画やアニメーションでいう「絵コンテ」みたいなものに近いかもしれません。そこから、実際に生きて動いた「絵」にしていく作業に入ります。ドラムスやベースといったリズム、ギターやピアノといった和音の「背景」や「色づけ」を具体的に固めていく工程です。初めの「弾き語り」(絵コンテ)を形にした時点で、こうした「背景」や「色づけ」の具体的なイメージがある程度存在している場合ももちろんあります。ですが僕の経験上、こうした「先にあるイメージ」は、ぶち壊していった方が楽しいです。もちろん、闇雲にぶち壊すのではありません。実際に用いる楽器や機材、選んだ場所の音響的環境、マイクの立て方、そして演奏による表現など、その時どんな音が得られるかによって、「当初のイメージ」との差異が出てくることがあるのです。イメージと違うから、当初のイメージにぴったり沿うものや環境に寄せていくのももちろん有効だし、そうしたアプローチをとることはもちろん僕にもあります。ただ、現実的に用意できる設備や環境が限られています。僕のように完全に個人の規模で何かをつくることを楽しむ者ならばなおさらです。ですので、「今、ここにあるもの」で出来る最上の表現を工夫します。そうするうちに、ときに「当初の背景や色づけのイメージ」とはかけ離れたものになることがあります。そして、それが「良い!」ことが多いのです。僕はひとりでじんわりと、「ぶち壊しの味」を噛み締めることになるのです。 イメージ通りでないものの排除を続けることにも、限界があるでしょう。そのときそのときの場当たり的な出会いに「反応」する自分を見つけます。「絵コンテ」というのは、その最初の踏み出しの一歩なのでしょう。転がり始めれば、勢いを増していく。斜面に沿って、ときにぶつかって跳ね上がり、周りを巻き込んで大きくなることもあるでしょう。 自分自身が転がり落ちる石でもありますし、そうした一石を投じる側でもあります。石を転がす傾斜や斜面をセッティングしたり、転がしながらコントロールしたりするプロデューサーやディレクターもいるでしょう。そうした多くの役割を大人数で割り振って進んでいくときの「許容」と、個人規模ですべてをおこなう場合での「許容」も、またちょっと違うのかもしれません。「絵コンテ」という共通のものに向かって、どう進めていくのかを具体的に考えて実践していくという点では、個人でも集団でも同じです。周りを巻き込む規模が大きいときでも、最初の一石となる「絵コンテ」を描く作業を担当するのは、一人の人間である場合が多いと思います。多くの人間との関わりが、その一人に「絵コンテ」を描かせている、ともいえそうです。
16日 6月 2018
水たまりで遊ぶ、息子(2歳)。僕は、これを放置します。妻は、こういうの、見ていられないんだと思います。こういう息子の行動を僕が放置できるのは、息子と僕だけがそこにいて、妻がいないとき。妻がいると、息子の行動に彼女がやきもきしてきて、やきもきしている妻を、僕は見ていられなくなる。だから、僕もなんらかの手を打つことになる。自分だけその場から離脱するとか、息子を連れて離脱するとか、妻だけを離脱させるとか、息子の注意を現在の行動から逸らすとか、場所や行動をやんわりとシフトさせるように働きかけるとか、やんわりとでなく半ば強制的に場所や行動を変えさせるように働きかけるとか、もろもろです。 水たまりで遊ぶと、ビチャビチャになります。息子は、楽しそうです。楽しいでしょうね。大人だって、水辺ではしゃぐことってあるでしょう。(ないか?)ビチャビチャになったあとが問題です。冷えるし、不衛生ですから、最低でも着替えるとか、あるいはシャワーを浴びたり、お風呂に入ってから着替えるとかしなければなりません。そうした対応に至るまでが長引いてしまえば、それをきっかけに、風邪をひくかもしれない。 僕は、水で遊ぶ楽しさのあとにやってくる、服や靴が濡れたことによる寒さだとか、身につけたものがまとわりつく不快感・重さだとか、その状態で着替えが可能な場所まで我慢して歩いて移動したりする辛さを含めて、息子に体験して欲しいと思っています。なんなら、その辛さのオマケに風邪をひいたなら、息子にとってより忘れがたい体験になるだろう、程度に考えています。まぁちょっとそこまでいったらかわいそうという気もしますが、僕にとっては許容範囲です。これが、おそらく妻にとってはそうでないのでしょう。そこの差によって、僕たちの日常のあらゆる「やきもき」が生まれてきます。 この「やきもき」に対して、僕は先述のような、ざまざまなタイプの「手」を打つことを試みます。そうした結果、どうなったかを受けとめます。さらに「やきもき」してしまったなんてことももちろんあるし、「あぁ、おさまったな、良かったな」なんて結果が得られることもあります。 これが、僕にとっての「水遊び」なのです。 なんてことを妻に言ったら、また「やきもき」されるのかもしれません。
15日 6月 2018
音楽やるとか、何か自分や誰かの未来のために勉強するだとか、やらなければすぐ死んでしまうわけじゃない類の活動ってあるじゃないですか。で、そういうものに僕らは時間と労力とお金の一部を費やして夢中になったりすることがありますよね。...
14日 6月 2018
子どもを見ていると、つい笑顔をつくりたくなってしまいます。たくさんの知らない子どもが集まるような場所に行って一定の時間を過ごすと、顔面筋がつりそうになることがあります。それほどに、普段の平均値を超えて笑っているのかもしれません。僕の家には2歳の息子がいますが、家では「顔面筋がつる!」ということはありません。...
13日 6月 2018
家族って、いろいろありますよね。あなたの思う「家族的」って、どんなことですか?どんな関係を想像するでしょうか。それこそ十人十色、千者千様(三者三様?)だと思います。 一緒に生活をするなかま。…だとしたら、ルームシェアやシェアハウスに同居している仲でもあてはまります。...
12日 6月 2018
つらくても笑ってみると、その状況って、「楽しい」ととらえてもおかしくない状況だということに気付きます。どんなものごとにも必ず、自分が見ている「表」があれば、見えていない「裏」があるものですね。むしろ、自分が見ているのは常に「裏側」でしかない、というくらいに思っておいて良いのかもしれません。自分の知らない面を見ているたくさんの人が存在している。そのことを想像する力が、新たな好奇心を生むのかもしれません。 「笑顔は光源」といったところでしょうか。ものごとに対峙するとき、自分の目の前の面にいつも光が当たっているとは限りません。目の前に露出している「面」でさえ、暗かったら何も見えていないのに同じです。「ここは暗い。何も見えない。面白くもなんともない。場所が悪いのだ」とつぶやいて去っていくのも自由ですが、誰かの「光」が照らすものを探し求めてさまよい、永遠に「集り」を続けることになるでしょう。目の前の暗がりは、自分の笑顔ひとつで照らすことができるのです。 自ら輝いている人は、こちらのことをよく見てくれているのだ!ということに気付きます。笑いかけること、笑顔で動き回ることには、周囲の人を「主役」にする効果がありそうです。 明るく見える人でも、実際は他者によって光を当てられることで明るさの中にいるという場合があります。みんなの注目を浴びるのに慣れてしまうと、自分自身が光を放つのを忘れてしまうことがあるかもしれません。音楽やら踊りやら演劇の舞台の上で強い照明のもとにいると、演者は客席のお客さんの顔がほとんどわからなかったりします。光やら音やら空間のデザインやらで加えられた様々な「演出」があることを、観る方も演る方もときおり意識すると良いかもしれません。純粋にお互いが放つ直接の光を射し合うような、色づけのないコミュニケーションの機会を大事にしたいものです。 自然光にはあらゆる色の波長が含まれており、たとえば「赤く見える物質」は、他の色を感じさせる波長より「赤」を感じさせる波長の光をたくさん反射する性質がある、といったような科学の知識を聞いたことがあります。自分が作為的に「赤」を感じさせる波長の光ばかりをはなったら、本来そんなに赤くないものまで赤く染まって見えてしまいます。人間には自ら発光する性質はないと思いますが、「笑顔」を「光」に例えるなら、そんな器用な演出や「偽装」も出来てしまうかもしれません。 自然な笑顔は、自然な姿を照らします。 それだけのことが言いたかっただけなのです。

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