自然へのアプローチ

びゅうびゅう吹きすさぶ風の音を聞きながら真夜中3時ごろを過ごした。3時というのはあてずっぽうである。実際のぼくはぐうぐう寝ていた。でも、一瞬くらいであるにしても、覚醒していた瞬間があったのは確かだ。そのときに聞いた風の音がすごかったのを覚えている。翌朝起きて家の前の駐輪スペースにある自転車を見て、妻が「カバーがない」と言って探しに行った。僕は妻が行ったほうとは反対方向に行ってみると、妻の自転車のカバーが葉っぱと雨水にまみれて公園の階段の踊り場に落ちていた。


自然の猛威の前では、人間は無力だ。家があってよかったと思う。こんな悪天候の日に身を隠せる場所がなかったら、絶望的な気持ちになるところだろう。気持ちが絶望的になるだけで済めばいいが、本当に実害があって人生の希みが絶たれてしまってからでは嘆くことさえできない。嘆ける状況というのは、最悪の状態よりは一歩ましなのだろう。



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釣りを、さんざんやりました。プラスティックなんかでできたルアー(疑似餌)をつかって、ブラックバスを狙う釣りをとくにたくさんやりました。湖面を前に立つと、広いところに向かって遠くに思い切り竿を振ってルアーを投げたくなります。でも、そこに魚がいるとは限りません。広くてなんにもなさそうに見えるけれども、水中にはなんかある!という場所でなければ、その一投が魚を連れてくる確率は、あんまり高いとはいえなさそうです。せいぜい、なんにもないことがわかるくらい。いえ、それもすごく大事で意味のある一投であることは、念を押しておきたいところですけれど。


なんにもないとこにぼへぇ〜っと居続けるというのは、実は結構ストレスフルなことかもしれません。なにかのパーティとか、打ち上げの席でとかで、ぼくはよく孤立します。ひとりでいるためにその場に出席しているはずもなかろうに、じぶんからアプローチできないし、アプローチされるほどの何かを発してもいないのでしょう。出席を断る勇気があれば、家でひとりでいられたかもしれません。その意気地もなかったのです。


まとまりたい、安心したいというのは本能的なことなのでしょうね。家というまとまりの中にいることも、それを満たすやり方なのかもしれません。


いっぽうで、だだっ広いところにごろんと寝転ぶようなことをときどきしたくなります。すごく不自然なおこないかもしれません。それをあえてやりたいのです。意思によって自然(本性、本能的な安心)から離れられることを確かめたいのかもしれません。そんなもの確かめたところでどうしたいというのか。確かめたところで、使わなければ意味がありません。


人間だって自然なのですから、不自然ができるぜ!なんて確かめるのは自分は人間ではない・人間らしくないものになれることを威張っているようなものかもしれません。何に対して何を威張っているのやら。そんな「不自然」に近づいてくるものはいないでしょうし、こちらから近づいたら警戒されるでしょう。なにかそういう戦略を持った個体、それが僕なのかもしれません。


んなこた、知らんよ。って感じかもしれませんが。


お読みいただき、ありがとうございました。