おもしろさの秘密

はぁ、目からうろこが落ちる思いです。


ぼくは、音楽のことに興味があります。いえ、もうすこし厳密にいいますと、じぶんが音を奏でたり歌ったりすることが好きなのです。そのことを、おもしろいと思っています。


いっぽう、ひとが発信したことで、「いいなぁ、おもしろいなぁ」と思えることがたくさんあります。そういうものと出会うと、すごくうらやましくなります。すごいと思うし、じぶんもそれくらいおもしろいものを発することができたらいいなと思います。でも、現実にあまりそれは叶っていなくて、ぼくは、ぼくがおもしろいと思うことをやっているのですけれど、あまりひとにそれをおもしろがってもらえてはいないようです。ひとりよがりなおもしろさなんでしょうね。それは、ぼくにとってはおもしろいのかもしれませんが、。


ぼくにとっておもしろいことでないと、ぼくは遠ざけてしまうくせがあるようです。でも、その遠ざけてしまうことのなかに、じつはぼくにも、ぼく以外のひとにもおもしろいことがあるのかもしれません。じぶんで「おもしろい」の定義を決めつけてしまっているのかもしれません。ほんとは、もっと、もっともっと、いろいろな、たくさんのものやひとやことが、おもしろいはずなのに。


ぼくには、問題をみつけるちからが足りません。「これはどうにかしなきゃならない」ということから目をそむけて、いままでじぶんがおもしろいとおもってきたことに、いままでどおりに取り組みつづけがちなのでしょう。そのおもしろさは、先細りこそすれ、広がってはいかないのかもしれません。よくて、現状維持でしょうか。


たとえば、社会問題として一般に認知されるようなこと(あるいは、これから認知されるべきこと)があったとして、それに向き合い、しかるべき態度を示したり、対処を実行したりすることって、自然ななりゆきだし、まっとうな反応だと思います。でも、ぼくは、そのまっとうな反応を、あえて避けがちなのです。そこでまっとうな反応を示してしまったら、多くの人がおちいりがちな状況にじぶんもまた陥ってしまうのじゃないかという、余計かもしれない危惧をしてしまうのです(実はそのことで、多くの人が陥りがちなことにじぶん自身が陥っているとは気付かずに)。それで、ぼくはまず「傍観」という反応を選択し、これまでじぶんがおもしろいと思ったこと(たとえ、それをおもしろいと思うのがじぶんひとりだけだったとしても)をこれまでどおりに続けがちです。


良くも悪くも、「変わらないやつ」の存在にも、ひょっとすると社会において担える一定の役割があるかもしれない、とも思います。でも、その存在にじぶんがなることを、実はぼくは心の底では、あまりおもしろく思ってもいないようです。


「これまで変わらなかったやつ」それはそれとして、これから変われたらいい。つまらないやつがつまらないわがままを言い続けているだけにならないようにしたい……


「おもしろい」とは、うらやましくなって、じぶんもやりたい、なりたい、加わりたい!となるようなもののことなんだと思うと、目からうろこが落ちる思いです。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。