光の有無

ついつい、だらだらしてしまいます。時間がまだまだあると思っています。でも、期限が近づくと、焦り出します。「あれ? けっこうやばいじゃん。のんびりしていられない!」と気づきます(手遅れ、という場合もあります)。私は、ほんとうに自己管理能力が低いのかもしれません。予定を遠くまで見越す視力がないのかもしれません。近眼。危険が迫っていても、気づかない。その存在を知ったときには、もうダメージを避けられない距離になっている。よくここまで生きてこられたものだと思います。いえ、ある種の鈍さが、ここまで私を生き永らえさせたのかもしれませんが。


これは、どんな時間配分が必要なのか、おのれの能力を超えた広い範囲を対象にした采配を求められた場合に起きる失敗なのかもしれません。視力が足りない、近眼な私は、その対象となる範囲を小分けにして計画を立て、やるべきことをこつこつと消化していかないと、ときに、おのれに課したものごとに打ち克つことができなくなります。


チームになることって、個人の役割を明確にすることでもあるのでしょう。一人一人がやるべきことを、絞ってくれます。視力がいい人、視野が広い人は、よりたくさんの範囲を対象にした活動を担うかもしれませんが、そうでない人も、役割が明確になることで、能力をフルに発揮して、メンバーとして活躍できます。


自己管理は、じぶんの資源をありのまま(買い被りや幻想なく)認識し、それを適確に采配することで達成されます。私はどうも、じぶんの資源の認識があまいようです。視力がじゅうぶんでないのなら、小分けにして認識するしかありません。また、資源の総量があいまいだったり、漠然としかわからないのであれば、「少なくともこれだけあるのは確実」という充当量でものごとをこなすべきなのかもしれません。その采配でまずやってみて、資源が実際はもっとあるぞとわかったところから、計画を修正すれば良いのです。(なんてことを口では言っておきながら、私はまた、あやまちを重ねることのないようにせねば)


視力がそんなになくても、ぼんやりとその存在を認知している場合があります。そこまで、はっきりと見る必要のないものは、無意識レベルで認識しつつ、余計なエネルギーを割かないように瞬時に取捨選択して、適切な割り当てを実行する、という高度な能力が人間にはある、とも思っています。


ぼんやりと、何かある。それがわかる。


それが、捨てるほうじゃなくて拾うほう、背くほうじゃなく向かうほうにあるものの場合、そういうのを、希望と呼んでもいいのかもしれません。


お読みいただき、ありがとうございました。