火の中の野次馬

情報をあつめたり、知識を得たりすることはそうむずかしいことでもないし、高度な思考や判断を要求されることも少ないでしょう。ただめぼしいとか、「これはひょっとすると」という程度のものを手当たり次第、背負った籠に放り込めば良いのです。


ウルフルズの曲に『暴れだす』というのがあります。その歌詞の中に「人のために出来ることはあっても 人のために生きることができない」という段があるのです。私は、これをよく思い出します。


そのとき限りで、何かをやるのは、私のような者にも容易にできます。なんでもとは言えませんが、やれることはけっこうあると思います。でも、そう「生きる」のは、これ、むずかしいことだと思うのです


私は、なかなか、いつまでも、誰かになれずにいる。何者かとして、生きられずにいるのです。


これは、悪いこととも限りません。何者かとして生きる、何者かになることが善であり正義である、という見方が立つということは、同時にその反対側の視点の存在も担保することになります。


じぶんがそうなれない者をこそ、私は尊敬できます。そうなろうと努力する、すこしでも近づこうと行動することは許されても、それになりきることまではなかなかかなわない、そんな存在があるから、そんな見方が・視点が存在するからこそ、私は生き続けていられるのだとも思います。


『暴れだす』の先ほどの歌詞は、そうやって私が生きるなかで抱える矛盾のそばにいつもいて、立ち止まるたびにちらりと顔を出すのです。そして、私がなりふりかまわず、夢中でどこかへ向かっているときには、さまたげることなくひょいと電信柱の陰に隠れてくれます。


何者かに、なる。引き返せないところに、しかと立つ。当事者に、じぶんがなる。そこからしか得られない視点があります。


野次馬のように外から様子をうかがう人間は、せいぜい、漏れ出る煙や火の粉の様子から、中の様子を想像するしかありません。


あるものごとについては「野次馬(のまま)でいる」というスタンスを決め込むことも、これも一種の、引き返せない判断です。安易にすぐ飛び込むことが、必ずしも望ましい結果を導くとは限りません。そんな観点から、私は動けない・動かない・見守るスタンスを決め込む判断をしたじぶんを受け入れて、でも今後、じぶんが飛び込むことになる・そうするべき局面が来たらそうする覚悟も決めつつ、たまにウルフルズの『暴れだす』の歌詞をこれからも思い出すのかなぁ、なんて思います。


お読みいただき、ありがとうございました。