ミュートON・OFF

あたらしくできたお店を見つけると、入ってみたりみなかったりします。それで、あと一年二年三年してそのお店がまだ営業を続けているか想像します。こりゃ潰れるだろうなとか思ったら意外に続いていたり、気に入ったので残って欲しいと思ったらあっけなくなくなってしまったりします。私はあんまり未来を見る目がないのかもしれません。


写真を毎日撮るようにしているのですが、いつの頃からか、影がよく目に入るようになりました。影をよく見るように心がけただけなのですが、見るようにしたら見えるようになったのです。影がある世界は、視覚的な対比に富みます。目の前の景色はこんなにも豊かでおもしろいのに、ずっと見逃していたなぁと思います。見ぬは見えぬ、見えぬは気付けぬ、気付けぬものは存在せぬ(実際はあったとしても)、となってしまうのです。


人の行動や仕草、表情、性格を目の当たりにしたとき、その人の子ども時代が見えることがあります。大人の姿をしたその人が、たった今、私の目の前でしていることややってみせた仕草・表した表情や癖や性格、それを少女や少年の姿になった同じ人物が同じようにしているところが感じられるのです。ああ、この人は昔っからこういうところが変わらないんだろうなぁと、感じるのです。


私が音楽を聞いたとき、よく聴く、感じるようにしているのは、コード進行です。これは、じぶんが作曲をするから、その参考にしようという魂胆があるのかもしれません。作詞もしますから、歌詞も気になります。


音楽を抜きにして、ことばも気になります。知らなかった単語や言葉づかいに出合うと、その意味や文字や漢字のつづり方について、可能なかぎりその場で質します。知っていたけれど、その言葉のなりたちやつくりをまじまじと気にかけたり考えたり味わったりしたことがなかったものにも、昔の私より近ごろのほうが、よく気づくようになったんじゃないかなと思います。


それは才能でも天性でもないでしょう。ことばを知らないあかんぼうが、2歳、3歳となるにつれて語彙が増えるようなもの、とでもいいますか……もう充分だとか、必要ないとかいう判断を深層的にすると、それ以降は無意識にインプットをミュートするようになってしまうようです。入力過多を防いでくれる、人間に備わった大事な機構だとも思います。でも環境が変わったり、その人が成長したり劣化したりと変化するに伴って、インプットしたほうがいいものも同時に移ろいます。それにも関わらず、ミュートの設定が以前のままということが頻繁にあるように思います。ミュートを解除して感じるようにした方がいいのに、インプットにふたをしたまんまということがよくあるようなのです。


心がけ、意識ひとつによって、ミュートは解けますね。


お読みいただき、ありがとうございました。