からだのニーズ

学生の頃は「居眠り人生」でした。親に学費を払ってもらっておきながら、学校に行って眠っているなんて。ぜいたく過ぎる睡眠環境です。


高校のときは、朝の「起立」の次の記憶が一日の終わりの授業の終礼の「起立」だった、ということもありました。いったい、一日何をしていたのでしょうか(寝ていた)。


大学のときも眠くて眠くて、よく寝入っては「船をこいで」いたようです。じぶんでじぶんが船をこいでいるところはなかなか見られないので、他の人が指摘してくれたから知ったことでもあります。ぐらんぐらん身体が振れていたみたいです。授業にのぞむやる気だけはあって、先生の話を漏らさず、臨場感いっぱいに聴きたいので、よくぼくは最前列に座っていました。が、そこで「漕いじゃう」わけです。やる気ってほんと「気」だけだなぁとつくづく思います。「気」なんかいいから、実際の行動あるのみなのに、です。(そんなぼくの「実際の行動」は、「漕いじゃうこと」だった)


眠そうにしているのや、寝入ってしまっているのを指摘されると、否定したくなることがあるように思います。居眠りが、一般にあまり歓迎されていることではないという感覚があって、じぶんがそんなことをしているのではないと思いたいのでしょうか。認めたら、じぶんが悪者になるからです。


眠そうにしていることや、居眠りしてしまっていることは、ほかの人の目からみると、本人が思うよりよっぽどバレバレみたいです。「ばれてない可能性がすこしでもあるから、指摘は否定しておかないと損」とでも思うのでしょうか。指摘するからにはあてずっぽう言っているわけではなく、あきらかにその兆候を認めたから、観測したほうは指摘するわけです。言い逃れをするのは、いま思えば、ばかばかしい。ケチャップを口のまわりにつけておきながら「食べてない」とでも言うようなものです。


第三者による悪意があって、えん罪を着せられたり、ありもしない罪を仕立てげられるのはごめんですが


「眠れ」と、からだがぼくに求めるから、ぼくはそれにこたえちゃうのかもしれません。


お読みいただき、ありがとうございました。