道はあれども、八方塞がり。

狙わずに得られた結果を愛しています。そんなものを愛の対象にするなんて、ちょっとへんな人かもしれませんが、そう言っておくのが近いような気がしています。


歳を重ねるほどに、あそびのハードルが高くなっていくのを感じています。思いもよらない事態がたのしくて仕方ない状態。それを、わたしはここでは「あそび」と呼びます。


歳を重ねて経験が増えるほどに、「どうするとどうなる」かがわかるようになります。残念なことに、わかるようになってしまうのです。わからないことが減ってしまう(思いもよらない事態をたのしめる機会を喪失する)のは、忌避したくもあり、でも知ることをやめられません。それをわかった上でも、たのしいことを探すしかなくなるのです。原野だと思っていた場所は、すでに人が踏み固めた道の上だったと気付いて、もっと貴重な機会を探しにいくことになるのです。


たとえば、机を叩くと、叩いた手に反動が感じられるとともに、音が鳴ります。机自体や、机周辺のものや、空間が振動するのです。机を叩くと、そういったたくさんの事物の変化が起こるということが、幼児にはたのしくて仕方ないでしょう。ですが、いつの間にやら、そんなことはたのしいと思えなくなってくるのです。


じゃぶじゃぶと水をかきたてるのだって同じです。その手ごたえ、ぴたぴたと散る飛沫、水面付近で複雑に覆いかぶさりあう水音、いろんな変化が起こり、反響しあい、事物が干渉しあうのがおもしろくて仕方なかったはずなのに、いつの間にかぼくはそんなことを「あたりまえ」のうちに数えてしまっています(実際のところ、数える意識すらなしに)。わたしの家族に幼児や乳児がいますが、かれらを見ていると、そんなことを思います。


思わぬ反響や手ごたえがあると、たのしくなります。たのしいといった、快い種類の経験に限ればきっとそうでしょう。結果を狙ってやったのに、狙った通りにならないと、それは場合によっては失敗と呼べるものになります。災いが降りかかるような不幸な事態だってありえます。


「こうしたら、こうなった」がありふれていた場合、ただ「道」がすでに存在したことの確認にしかなりません。もちろんそれはそれで、重大な意味を持つ経験にもなります。「道」があると思った場合でも、時勢によっては、かつてあった「道」、通れた「道」がなくなっていたり、そのままでは通れなくなっていることもあるでしょう。ですから、かつてあった「道」を手掛かりに何か行動を起こしてみるというのが、開拓のための有効な手法のひとつであることに、ぼくはいつの間にやら気付いていたのです。


知った瞬間、過去になります。実践の連続した状態こそが、生きている証なのでしょう。


お読みいただき、ありがとうございました。