トイレに行くタイミングを図った足跡なんて、明日にでも消えるかもしれない。

アイドルだって総理大臣だって、トイレに行って、出すものを出している。ひょっとしたら、トイレ以外でも出したかもしれない。そんなこと考える必要はないとおっしゃる方もあるかもしれない。確かにおっしゃるとおり、考えても考えなくても、出るものは出るだろう。


でもそうしたら、考えても考えなくてもその通りになるものは、考えなくてもいいのだろうか。たとえば、ぼくもあなたも、遅かれ早かれ必ず死に至る。そのことについて、何も考える必要はないと言えるか?


確かに、「必要あり」とまでは言えないかもしれない。あなたがそれについて考えなくても、ぼくがあなたにそれについての思考を強制することはできない。立場が逆だったとして、考えないぼくに、あなたがそれを強いることはやっぱりできないだろう。


仮にここでは、結果に影響ないものは、考える必要がないとしよう。ぼくやあなたが死ぬという結果は変えられない。でも、そこに至るまでの過程には、いくらでも変化を及ぼせる。無傷で残る結果は、「死ぬかどうか」という点についてのみである。致死点までの過程はどうだっていいとは、ぼくには言えない。たぶん、同意してくれる「あなた」も多いのじゃないか。


「必ず死に至る」ということは、認めて、受け入れるしかない。いつでも他者に何かを強いれはしないこと、考えても考えなくても結果に影響しない点が残ることもやっぱり、受け入れるしかない。


それでも、変えることができない点に至るまでに、どのような立ち振る舞いをしたかという「足跡」が残る。一点に絞って結果を論じることはできるが、その一点のために、ぼくは生きているのではない。


結果として、ぼくはトイレに行って出すものを出すし(トイレに行かずに出すものを出す術の有無はともかく)、やがては死に至る。そのことを指摘されれば、ええそうですと首肯する。で、そのことについて、強いるわけでもなしに、考えたり考えなかったりしている。


なんてことをちょっと考えてみた、今日という足跡も、風に吹かれて明日にでも消えるかもしれない。



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