暫定の姿見

たまに息子(3)を叱ってしまいます。怒らないようにしていますが、「それは許せない」というポイントがじぶんにあるようです。


息子のおこないのうち、たいていのことは許します。一時的に不快に思うようなことや、やめさせたくなるようなことでも、そのおこないの結果として予想される状況のほとんどは、冷静に、長い目で見てとらえれば、止めるほどのことでない場合がほとんどです。なら、やらせてあげればいいじゃないと考えて、ぼくは多くの場合は、見逃す、息子の思うようにやらせる、ほっとく、という選択をします。


じぶんは、どういうときに息子を叱ったり、そのおこないをやめさせたりするのか。ひとつは、感情に流されてヤケになりすぎて、モノや人に対して手や足が出るなど、乱暴になってしまっているときでしょうか。でも、叱るというよりは、とにかく、叶わない欲求の対象や、不満の原因から遠ざけるために、半ば無理やりにでも外に連れ出す、というような対応をすることが多いです。


叱るときは、こちらの感情のほうも、いくぶん抑えが弱くなっているのかもしれません。1ミリたりとも感情に流されることなく、理性にしたがって叱れているのかと言われれば、ぼくはたじろいでしまいます。


じぶんの見せた姿は、息子に伝わります。こちらが感情をあらわにすれば、息子も感情をあらわにすると思います。何かの解決をはかるときに、ことばや腕力の横暴の行使によってそれを成せば、息子もそれを解決の手段として用いるようになるのではないかとぼくは思っています。


だから、極力、真似されて困らないことだけを息子に示したいと思っています。それがどれくらい守れているか、自信はないのですけれど。将来の息子が、鏡となって教えてくれるのかなぁなんて思います。


幼児期は親子の関わりが特に濃密です。ですが、社会や他者との関わりの広がりに応じて、それも薄まっていくでしょう。「息子はおれの鏡!」などと吠えるのは、だいぶ理性に欠けるようにも思います。子どもはおのずと固有の人になって、新しいことをこちらに教えてくれる存在になるでしょう。もちろん、それは幼児期の今でももちろんのこと。さらには、親のことをじぶんの鏡として利用する(ああはならないようにしようと参考にする)くらいになるのです、きっと。



お読みいただき、ありがとうございました。