黙殺と音声

萩原朔太郎の詩を読んでみたのですが、なんだかよくわからず、ピンと来ないなぁ、いまのじぶんにはまだ早いのだろうかと思いました。


そこで、わたしは音読してみることにしました。言葉という記号を認識して、子音と母音をつくって発します。音波になったそれが、反響してかえってきます。お? なんだか、作品をじぶんが理解しているかは別として、ぼくはいま肉体で詩をとらえているのではないかと思えたことがあります。「さしすせそ」の子音の高域の音波がそのまま、言葉そのものの「切れ味」に感じられます。相変わらず詩の内容はぼくには難しいというのは揺るぎませんでしたが、ぼくは萩原朔太郎の詩を、「わからないなりにも〈読んだ〉ぞ」という実感を得ました。黙って読んでいるだけでは、あまりにも、読んだけど残るものがなさすぎて、「読んだのに読んだと言えない」読後感に至ったのではないかと思います。もちろん、それはそれでひとつの重要な体験だったと思います、「わからない」ことがわかるのもまた、今後の身の振り方を決める手がかりになるでしょうから。


こどもを持つと、絵本を音読する機会が自然ななりゆきで得られます。ぼくには3歳と0歳の子があり、ぼくが絵本を音読してやることがあります。してやる、なんて言ったら態度が大きいかもしれません。ぼくは喜んでやっています。


じぶんの肉体の動作の結果として生じた音波を、じぶんで認知するのは楽しいです。じぶんのおこないの結果がほぼ同時に返ってくる、その刺激が、じぶんがその動作をしたらしたぶんだけ継続するのです。


絵本の音読はもちろん、楽器の演奏や歌唱がまさにそれです。


ぼくは今までの33年間ちょっとの人生のうち、ほとんどの期間を楽器の演奏や歌唱の活動をともなう形で過ごして来ました。


じぶんの子どもを持ったうえで過ごした人生の長さは、まだ全体の1割程度です。絵本を音読する機会を頻繁に得るようになったわけですが、ずっと楽器の演奏や歌唱をしてきたぼくにとって、それはとても自然なおこないで、ずっと慣れ親しんできた肉体の動作そのものでした。


萩原朔太郎の詩がわからないから肉体的な経験への変換を試みたのも、ぼくにとってごく自然なやりかただったのかもしれません。


頭でわからないから体におしえたのだ、なんて、頭とからだをさも別ものみたいな物言いをしがちでしたが、最近つとめてぼくは、頭とからだを過剰に別物扱いするのを控えています。思考も、からだの活動のひとつです。外見上とらえづらいおこないを、外見的にも認知しやすい行為と結びつけることによって、わかりやすくなる場合があるように思います。わかりやすくといいますか、せっかくの活動を無価値のまま埋もれさせないで済むといいますか……


お読みいただき、ありがとうございました。