感性の錆びつき

シズル感という言葉があるそうです。主に広告業界で使われるのでしょうか。デザインとか広告に携わる仕事をしている人が書いた本を読んで、ぼくはこの言葉を知りました。


つまり、「そのものらしさ」というようなことらしいです。「シズル感」の意味。


これってけっこう、奥深いようなシンプルなような。「見たまんま」こそがシズル感なのかもしれませんが、個人の持つ偏見が「まんまを見ること」を阻んでしまって、案外難しいのかもしれません。


それはちょっとしたコツのようなもの、経験やスキルの助けを借りて解決をはかれる部分もあるでしょう。目の付け所のズラし方、みたいな教則も、なきにしもあらずかもしれません。


すっ裸の純真で、この社会と真正面からぶつかると、怪我をしがちです。だから、ぼくの皮膚や脂肪を厚くする「偏見」が醸成されるのだと思います。でも、その偏見が「シズル感」を真に捉えるのを阻みます。もともと、あるがままを「そのもの」は放っているのに、怪我を臆する姿勢が、そのものらしさの真向かいに立つことを遠ざけるのです。


何も、対象と目と目をバチりと合わせることのみによって、「シズル感」がわかるとは限りません。リラーーックスして、なんならソファかリクライニングチェアにでも身を沈めながら、どこか遠くを見るともなく見ているそいつ、こちらの目線など知らず、気にもせずいるそいつを、横から斜めから後ろから下から見るのでもいいのだと思うのです。なんだったら、鼻の穴から耳から毛穴から対象に入っていって、中から見るのでも良いのでしょう。けれど、それはかなり専門性の高いスキルの部類かもしれません。


肉汁滴り、ほあほあと湯気を放って光を乱反射するさまを、ハンバーグのシズル感とする。それもひとつの解かもしれません。じっーと見つめればそれをとらえるのはたやすい。でも、目の前に置かれたハンバーグを見て感じることなく、無意識のうちに口に運び、スマホを見たりしてろくに味わいもせず胃に収める、なんてことをやりがちです。


「それ」をしないと、置いていかれる。そんな脅迫観念の意識的な排除が、生きる上で有効な社会ってどんなやねん。



お読みいただき、ありがとうございました。