痛みの代償


 朝、傘を持って出ていかなかった。午前中を外出先で過ごす。昼前から、雨が降り始めた。

「聞いてないぞ。」

雨なんて。

 それはそうだ。私に、〈今日は昼前から雨です〉などと伝える義務のある者はいない。私は、そうした情報を自ら求める必要がある。もしクレームを入れたいのなら、自分自身にお伝えするしかない。〈やい、なんで今日の天気がどうなるかを調べなかった?〉

 めんどくさかったもんで。

 未来に興味がないのです。

 濡れたっていいじゃない、少しくらい。

 天気を調べる必要があるなんて、思わなかった。

 いっせいに複数の私が口応えをする。煩い、と一蹴していい。

 

  「梅雨はいつまでだ?」などと私がいう。いや、声に出して誰かに言ったわけではないし、独り言を漏らしたわけでもない。梅雨がいつからいつまでかなんて、だれが決めるのか。

  …気象庁。

  …わし。

  …空。

  …

  私は、脳内の口応えを減らしたい。

 

  雨が降ることを私は予想していなかった。おかげで、私は傘も持たずにひ弱な靴を履いて出かけた。靴に雨水がしみ込んで、靴下が湿り気を帯びてしまった。

  それで、〈今って梅雨だっけ?〉〈そもそも梅雨って誰が決めるの?〉などという疑問を抱くに至る。その疑問を解決すれば、私は傘も持たずにひ弱な靴を履いて出かけ、靴下にまで雨水がしみ込んだことを納得できるらしいのだ。

  このメカニズムの馬鹿らしさに、我ながらため息が出る思いである。

 

  そうじゃないだろう?

 

  今日の空模様が、誰かが決めたことに沿うものであるのならば私は納得しようなどと、なんて馬鹿なんだろう。

 

  私が「納得」するかしないかの基準って、ほかの誰かに決めてもらってばかりいるようである。

 

  誰かに決めてもらった基準による「納得」を、私は重んじ過ぎているかもしれない。これは、自省の種だ。

 

  「納得」するための基準を、もっと自分で決めて、持っておくべきかもしれない。あるいは、私が「納得したかどうか」をアテにするのは危険かもしれない。私が本当に望む未来に、私自身を連れて行ってくれる指針ではないかもしれないのだ。

 

  …未来に興味がないのです。

  とか言っている私よ。まずは明日の天気を調べよう。それは、だれかに調べてもらった結果を検索する行為にあらず。調べるとは、判断に足る材料をじぶんで寄せ集めるおこないをいう。調査が済んで、誰かが出した答えを取り寄せる発注作業を指すのではない。


  音楽において、「美しい調べ」という形容がある。美しい調べは、身を切った痛みの代償なのかもしれない。