てつがくのポーズ

へたに考え休むに似たり という慣用句? があるのですね。へたに考えるのは無駄であるとか、へたに考えて何もできない・実らないくらいなら、まず何か行動してみてから考えて軌道修正するなり方向転換するなりしたほうが良い結果をもたらすよ、といったようなことをさとすことば……といった感じでしょうか。


休むことはすごく、有効・有用であるように思います。へたに考えるくらいなら、休んだほうが良い結果をもたらすであろう場面は、けっこうあるかもしれません。ですので

「休むに似る」というより、「休むに及ばず」というニュアンスのほうが、ぼくはうなずきやすいように思います。


あるいは有効・有用である「休むこと」に「似る」のですから、「へたな考え」

というのは、「休むこと」に匹敵するくらい有効・有用なことなんだよ! という解釈だって、できてしまうのではないでしょうか? (「へたな考え休むに似たり」がどういったニュアンスでつかわれる慣用句なのか、その前提を知らない人が初めてこのことばに触れたとしたら)


最近、死について論じた哲学の入門書を読みました。へたに死について考えるくらいなら、まず生きたほうがましでしょうか? まず生きてみて、そこで感じたり出会ったりした不快さ、不幸さ、わだかまり、もどかしさ、はがゆさ、くやしさ……そうしたものを考えのスタート地点にして、考えることを始めればよい……とするのがよいのでしょうか?


死について考えることは、究極の日常、でしょうか。「哲学すること」が、非日常的なことに感じられることはありませんか? 「死」は、だれもがかならず至るものです。だから、究極に普遍的なことのはずです。ですが、毎日を生きる中で、どれだけその真実を思い、正面からとらえ、考えているでしょうか? いや、普遍的すぎるがゆえにかえってわたしもあなたも意識していないように思われるだけで、わたしもあなたも例外なく、毎日死と向き合っているのかもしれません。意識を自発的に向けるか、そうでないかくらいの違いに過ぎないのかもしれません。意識を意識的に向ける……なんかおかしいですね。ぼくのことばづかいが。



「てつがくのライオン」という、工藤直子さんの詩があります。とてもぼくが好きな詩です。「てつがく」っぽいポーズをとったら、じっさい、ほんとうに「てつがく」しているかもしれません。あるいは、ほんとうに「てつがく」していたら、じぶんのポーズがしぜんと「てつがくっぽいポーズになっていた」ということがあるのかもしれません。



お読みいただき、ありがとうございました。