ツボの探求

指示されたり命令にもとずいたりして仕事をすることがあります。工夫やアレンジの余地もなく、機械的にただこなしさえすればよい類の作業であることもありますし、工夫やアレンジ、発想することを含んだかたちでの指示や命令に端を発する作業である場合もあります。後者のほうがやっていて楽しかったり、充足感や達成感があることが多いような気がしますが、いっぽうで、前者のほうが、より競技的なたのしみといいますか、身体を動かすことの爽快さがあるかもしれません。いかに無駄なく効率よく洗練された動きを可能なだけ速くおこなうかの追求のみに全神経を集中させるかというところにその仕事の質が左右される場合、その妨げとなるものの排除が重要な意味を持つでしょう。


じぶんでやりたくてやることがあります。ほかのだれにお願いされたわけでもなく、じぶんからのお願いを叶えるために何かをおこなうことがあります。お願いをかなえたら、お願いの主である「わたし」はよろこぶでしょう。「よろこぶわたし」を実現させるために、いまのわたしが動くことがあるのです。


お願いの主はもちろんじぶんでなくともかまいません。他者である場合が多いという人も多いでしょう。仲間の多さがその数を左右するのかもしれません。


わたしの唯一の仲間は、わたしである……といったらおかしいと思う方もあるかもしれません。じぶん自身を仲間にカウントするのはおかしいでしょうと指摘する方もあるかもしれません。わたし自身、その指摘の妥当性もわかるつもりでいます。あくまで、つもりですけれど。


あなたのいうバナナと、わたしのいうバナナは、まあまあ高い精度で一致しているでしょう。では、あなたのいう友情と、わたしのいう友情だったらどうでしょう。友情の部分が、愛だったら? 愛の部分が、生きがいだったら? 生きがいの部分が、幸福たったら? 代入されるものが多様で複雑なものになるほど、一致する精度は低くなるかもしれません。それについて話し合うべきことは、尽きないほどあるでしょう。


「わたしの仲間は、わたしである」とした場合、わたしと「わたしの仲間としてのわたし」の「幸福」だとか「愛」だとかは、高い精度で一致してしまうかもしれません。その違いについて話し合うことはあまりないでしょう。それが悪いとはいいません。なのにどういうわけか、わたしと「わたしの仲間としてのわたし」だからといって、いつも阿吽の呼吸が成立するかといえば、そうでもない気がします。


どこがツボであるかとか、そのツボをどんなふうに刺激するとツボの持ち主は快感を得るかといったことを探ったり探られたりするのには、「わたし」とはべつに仲間がいるほうが良いようです。


お読みいただき、ありがとうございました。