失敗は成功の友

失敗は成功の母、ということばを聞いたことがあります。偉人のことばだったと思います。言い放ったのはどなただったかしら、エジソンさんでしたかしらね。


「母」は、よく見ています。よくことばをかけます。はたらきかけもするでしょう。そのままではあぶないとか、とりかえしのつかないことになるとかいったときの分岐点にある子を守る存在、という「母親像」について思います。


「失敗は成功の母」と表現する際、そこでいう「失敗」はとりかえしのつく範囲内での失敗をいうでしょうか。


失敗とはそもそも、本質的にとりかえしのつかないことである、とも思います。とりかえしのつく範囲内でのおこないは、言ってみれば失敗未満です。


死んだら失敗もできない(死を含んだ失敗があるかもわかりませんが)ため、それくらいの重大な事故から子を守らんとする、命を育むもの……それが「母親」でしょうか。(「母親的」であることと当の本人の性の区別が一致している必要はないでしょう)


人間は生まれる赤ちゃんの数に対して、大人になる赤ちゃんの数が比較的多い生き物といっていいかもしれません。マンボウは数億の卵を産んで、成魚になるのは3尾ほど……なんて聞いたことがあります(数は適当、うろ覚えです)


野球では3割打てたら大打者です。大人になる人間の赤ちゃんの割合が仮に3割だったらなかなか厳しいという印象を抱きますが、マンボウの赤ちゃんが3割成魚になったとしたら、海洋中の生態系は今とはかなりちがうものになるでしょう。


失敗という母から成功がうまれる割合が現実のマンボウくらいだったとしたら、億単位÷3(数は適当です、重ねがさねですが……)くらいで生み出さねば、成功はこの世にあらわれてくれません。一方、人間の赤ちゃんくらいの割合で大人になるのだったら(この国における感覚でいえば、ですが)、けっこうびくびくして少なく生み出したのでじゅうぶん成功がのぞめるでしょう。


そんなことを思うと、野球における「打率3割」という数には、深遠なものを感じます。報われる希望を保ちつつ努力を続けられる、その最高の部類が「打率3割」といったところでしょうか。


ぼくの打率は3割になんかきっと届かないくせに、これまでの絶対的な総打席数も年相応未満かもしれません。もっと野球しようぜ、ぼく。


「失敗は成功の友」とすると、ちょっとまた違ったつきあい方になって、新鮮かもしれません。


お読みいただき、ありがとうございました。