しろうとの詩

僕が十字架か棺桶かのように背負っているように我ながら感じてしまいがちでいることのひとつが、器用貧乏ということです。


むかしからたいていのことは、それなりにできました。なんてじぶんで言うのは恥ずかしいことかもしれませんが、できたんです、たぶん。だから今こんなことを思うわけです。


幼い頃からピアノをやっておりました。ばつぐんには弾けないけれども、からっきしダメでもない。練習が好きと言うほどでもなかったし、あきらめるほどの根気もありませんでした。


中学に上がってギターをはじめ、やがて地元のアマチュアオーケストラで打楽器をはじめました。


じぶんの専門はなんなのかがわからないという混沌がこのときにはすでに始まっていて、その圏内に足を踏み入れてそのまま今にいたるわけです。


高校にあがってバンドをやり、僕は途中でギタリストからギターボーカルに転向します。歌が下手でしたが、絶望的に下手でもなく、やはり辞めてやる!というほどの根気もありませんのでそのままギターボーカルをつづけます。


やがて僕は、4トラックカセットテープレコーダーなるものに出会います。これは、カセットA面のステレオトラック(2トラック)とB面のステレオトラック(同じく2トラック)の合わせて4つのトラックをつかい、トラック個別の録音と4つのトラックの同時再生ができてしまうという画期的かつ最高のオモチャマシーンでございました。これに僕はじぶんでギターやベースやドラムやボーカルといった、いわゆるバンドの音を構成する複数のパートをひとりでひとつひとつ録音していって、じぶんだけによる演奏の仮想バンドサウンドを成立させるというあそびに没頭するようになるわけです。


そんなわけで、ぼくはギタリストでもボーカリストでもドラマーでもベーシストでもピアニストでもありつつ、しかしそのどれもある種の「ニワカ」的なものでスペシャリスト中のスペシャリストになれるわけでもなく、その全体の不和や調和に勝手に胸キュンして人生を送っている始末です。


そう、強いていうのなら、僕は「非・スペシャリスト」についてのスペシャリストなのです。いえ、やはりそれほどの根性もないので

、すぐに前言を覆すようですが、つまるところ僕はただの「非・スペシャリスト」といったところでしょうか。


僕は名前を「しろう」というのですが、「しろう」と「〇〇」(〇〇に挿入するものは音楽でも美術でもスポーツでもあらゆる種類の何かしらの職能でも結構です)とつなげて言った場合、「しろうと〇〇」(素人〇〇)となります。


生まれ持った性分だなどと言うのは、「しろう」に生まれた僕に失礼である……と言ってみる。ちなみに、「しろう」は「詩郎」と書きます。「詩」って、ある種の「しろうと」の文化でもあるわけです。と、僕は考えています。もちろん、「専門家による詩」というものの存在も否定しませんけれど。



お読みいただき、ありがとうございました。