表情筋で、いいシゴトしよう。

たのしくないことは、どうやったらたのしくなるのでしょうか。仕事で事務室に詰まり込んで、パソコンの前に座って事務文書をつくっているのはひたすらにたのしくありません。それをすることを辞めてしまったり、放棄したり、ほかのことにかまけて先送りにしたりすることなく、どうしたらたのしくないことをたのしくやれるでしょうか。「それをする。それをやらなくちゃならない」はどうしたって動かせない場合、たのしくなくたって、やるしかありません。


まず、その一見たのしくないことでも、たのしくやれたら最高です。でもそれが難しい場合、どうしたらたのしくやれるかを考えながらやるだけでもいくぶんたのしくなるのでしょうかね。パソコンをこつこつと打って事務文書をつくる作業をたのしくする工夫って、一体どんなものでしょうか。せめてコーヒーでも飲みながら、時間に余裕を持って優雅にやれたら悪くはなさそうですが、何か根本的にたのしくやれるようにそれで変わったという風にはどうも思えません。実際そんなことはすでに試したことがあって、まぁ悪いようにはならなかったとも思いますが、やっぱり事務文書をつくるという作業そのものが「たのしいものに変わった」とは思えません。


掃除をすることがたのしくない場合、どうしたらたのしくなるでしょうか。大好きな音楽を大きめの音量でかけながら手を動かしたら、たのしいでしょうか。


無心になってからだを動かすことは気持ちが良さそうです。そもそも、掃除という作業がわりと好きなほうである、という方もわりといらっしゃるのではないかと思います。


事務文書づくりだって、きらいじゃないとおっしゃる方もわりといるに違いありません。少なくとも、ぼくが思うよりは……ですけれど。


事務文書づくりも、大好きな音楽を大きめの音量でかけながらやったら、そこそこたのしいかもしれません。でも、事務室は同僚も働きますし、ぼくの職場についていえば一般の方が頻繁に往来する公共の場ですから、それは難しいでしょう。窓口応対もありますし、ひとりでイヤホンをつかって大きめの音で……もなしです。このアイデアは手詰まりでしょうかね。


なにか根本的に発想の方向性が間違っているようにも思います。どうしたらたのしくなるかを考えながらやることは、見た目のうえでは、それを考えないでやっているときとあまり物理的な違いがあってはいけないのでしょうか。間違っても、そこに大きい音で音楽を流すスピーカーが存在している……というような違いがあってはいけないのかもしれません。ただ、作業にあたっている人の表情が柔和であるとか、たのしそうな顔をしているとかいうのはいくらでもありでしょう。そうじゃないよりは、そうであるほうがきっといいに決まっています。笑顔を無理矢理にでもつくりさえすれば、脳が「たのしい」と勘違い(あえて「勘違い」と表現)するとも聞きます。


そう、「たのしくないこと」でも「どうしたらたのしくなるかを考えながらやる」ことで、ほんとうに少しでもその「たのしくないこと」が「たのしくやれるようになる」のだとしたら、それは「つくり笑顔」と似たような効果があるといっていいのかもしれません。


「笑顔」だって、物理的な違いに含められないといったら嘘になります。結局、「何かが違う」といった場合、その違いは観測可能なものであるわけで、観測可能なものである以上は、かならず物理的にどこかが違うわけです。


その場をすこしでも良いものにしたいという思いから、笑いの表情筋がつりそうになることが、ぼくにはたまにあります。


お読みいただき、ありがとうございました。