「わたし」の代謝

最近読んだ哲学関連の本に、「永遠に生きられるのはいいことか」といったような問いについて論じるものがあった。それは「死は悪いことか」と考えることにもつながる。


永遠に生きられたとしても、私らしい私が遠い未来にいなくなってしまったら、それは同一人物としての私がずっと生き続けていることになるだろうか。というのも、永遠に生き続けて、長い時間をかけてゆっくり人格が変質していった結果、かつての私とはまるで別人のようになってしまうことが考えられる。その場合、確かにおなじ身体を持った存在としての「私」が生き続けたとしても、かつての私がそのときもなお生き続けているという感じが薄くなるように思う。


「わたし」は「わたし」でありつづけるが、「わたし」でなくなるかもしれない。「わたし」は「わたし(らしい人格)」を失っても、おなじ身体を持った存在としての「わたし」が生き続けることがあるかもしれない。


個人にそうしたことが起こりうるならば、当然チームにもそうしたことが起こりうるだろう。あるビジネスのチームが、かつてよりおこなってきた商売とは別の種類の商売をはじめてそれ以降やっていくということが、現にあるだろう。そのチームは、かつてまでの「チーム」であって、かつてまでの「チーム(としての人格)」を失っているかもしれない。あるいは、商売の姿・かたちは全然違ったものになったとしても、むしろ「チームとしての人格」の方が守られ続けている場合もあるだろう。


僕がこれまでとは違ったかたちのおこないを、人が変わったみたいに急にやりはじめた(かのように見えることがあった)としたら、それはほんとうに「人が(人格が)変わった」のかもしれないし、むしろ人格を貫き通した結果、違ったかたちのおこないのほうが僕の人格にコミットしたのかもしれない。急に人が変わったかのように見えても、ずーっと僕のことを間断なく観察し続けられる人なんていないだろうから、観察点と観察点のあいだでしかるべき段階を経て(無限に細かい段階を経て)、僕は変質したのかもしれない。


「あいつなら急に変なことやり始めかねない」という評価が付されがちな人も、世にはあるだろう。それはむしろ人格が守られ、貫かれ続けているパターンかもしれない。



お読みいただき、ありがとうございました。