無為の自粛

「付き合い」要素のない「飲み会」に、僕はいったいどれだけ参加しているだろうか。いや、「会」として複数の人間があつまる以上は、「おつきあい」の要素をゼロにすることは不可能かもしれない。あるいは1人で飲んでいたって、「おのれ」に付き合ってやっているととらえることもできる。ひょっとしたら、他者よりめっぽう手のかかる飲み友だちである。


酒は、この国では20歳で合法的に飲めるようになる。20歳でいる間は、酒を飲む際にそのことを頻繁に意識したかもしれない。しかし、21歳になると、そうでもなくなる。そうした、「もうほやほやでもない。そう頻繁にほやほやであることをとやかく言われることもない」解放感が、21歳にはある。だから、僕はじぶんが21歳だったころ、じぶんが21歳である事実を好ましく感じていた。


その頃、このゆるい解放感は、ひょっとしたら31歳や41歳という、キリの良い数字をひとつ過ぎた年齢になったときにも感じ得るのではないかと予想した。しかし、31歳になったとき、その感覚は、大してなかった。21歳の僕は、予想を外したのだ。やはり20歳の意味合いは大きかった。


特段、30歳になることで合法になる行為はこれといって思い浮かばない。合法かどうかを僕はどれだけ気にしているのだろう。法にしばられているのだろうか。もしくはびくびくしているのだろうか。そのどちらもないとはいえないだろう。法はこの国のかたちであり、この国で過ごす際は、国民はそのかたちに沿って生活することになる。僕もまた、国民だったのだ。知っているようで、思い知っていなかったことかもしれない。


法そのものよりはいくらかゆるい秩序をもったまとまりが、チームといったものかもしれない。法のかたちに沿って生きる国民のあつまりが、チームだ。硬い物と触れ合うさいには、ぐにっとじぶんたちのかたちを変えて、その硬質なものに沿うことができる。でも反発する力もあって、その硬質な物との接触・協調から解放されたときには、もとのかたちに戻ることができるというのが理想かもしれない。やわらかく、しかし、じぶんたちの「かたち」がちゃんとあるというのが良いと思う。


無為とわかっていて過ごす時間は楽しい。酒を飲むことを決めた際、その無為な時間を受け入れることを覚悟し、決意したじぶんがいる。無為だなんていうけれど、振り返ってみると、ストイックに過ごした数々の時間よりも無為だと思って受け入れた時間のほうが思い出深いものが多い。「無為」という評価の乱用をもういくらか自粛したくらいで、ちょうど良いのかもしれない。


お読みいただき、ありがとうございました。