本読み(読まず)の、こうかい?日記

日記とは日々の出来事や雑感をそのまま記したものをいう。でたらめでも成立するかもしれないけれど、その場合は「でたらめ日記」とわざわざ分け隔てて呼ぶのがよろしいかと思う。というかそれはもはや「私小説」とか「日記風おとぎ話」とでもいうべきか。ある特定の人物の手記の体を思わせるかたちでつづられたミステリー小説なんかがあったなぁと思い出す。なんてことを並べ立てて何が言いたいかと言われても特に言いたいことはないのだけれど、これだけ「日記」というものが人々の、いや、少なくとも僕にとって身近なモノであることだけはわかった。これは収穫である。


仕事のことを細かく日記に記そうというとき、読者が自分のみの日記であれば難はない。だけれど、公開することを前提として書く場合はなかなかそうもいかない。仕事というのは他の誰かと関係し合って成り立つものだから、個人がなんでもかんでも自由にしゃべり明かしてしまうことで関係者・あるいは無関係に思える者までもを巻き込んで迷惑をかけかねないからだ。仕事上のどんなことを明かしても迷惑をこうむるのは自分自身のみなので、私は何を公開日記上でしゃべり散らしても大丈夫……という人は果たして存在するのだろうか。仕事によってはそれにかなり漸近するものもあるかもしれないけれど、やはりまったくいかなる者にも影響を与えない公開日記というものは存在しないだろう。書き手も、その日記すらも存在しえないはずだ。こんなにくどくどと並びたてて何を言いたいわけでもないのだけれど、少なくとも「日記」というものは存在するだけで何かしらに極小以上の影響を与えるモノであるということがわかった(「日記」以外のこの世に存在するものすべてがそうであろうが)。これは、収穫かもしれない。


僕は、本をよく買う。そう、買うことイコール読むこととは限らない。最初の30ページほどを読んで、「積ん読入り」させてしまった本が僕の家にはいっぱいある。「殿堂入り」みたいなリズムで言ってみたが、似て非なるものである。いや、最初の30ページほど読んでいるのであれば、そこまでに関していえば近いものがあるかもしれない。これによって特に何かを言いたいわけではないけれど、少なくとも最初の30ページだけでも読んでいるのであれば、「殿堂入り」に推したい本に対するおのれの扱いと最初の30ページについてのみいえば、等しい扱いをしている可能性があるということがわかった。だからなんだということもないし、こんな程度では収穫とは言い難い。


最後まで読了したもののみを「殿堂入り」に推して良いというのは、僕が勝手に思い込んでいるルールでしかない。「その本について知っているのはタイトルのみ」という場合でも「殿堂入り」に推したって良いかもしれない。ただ、その場合はより「積ん読入り」させた方が適切であるという気がしてならないのは、おそらく僕だけかもしれない。



お読みいただき、ありがとうございました。