でっちあげの空元気

食事をしたら、汚れたお皿が生み出される。おいしく食べれば食べるほど、かつてきれいに盛りつけをほどこされていたはずのお皿が積み重なる。おなながいっぱいになって、おしりが椅子の座面に吸い付いたようになる。もうここで腰を上げるのは無理です、となる。お皿は積み上がったままである。


何か盛大な催し物を開いたとする。みんなで盛り上がった。おまつりわっしょい、である。楽しかった。疲れたし、もう眠いねなどと言い合う。飾り付けもそのままだし、あたりにごみが散らばっている。元どおりにきれいにしなければ。


何かをすれば、何かをしたぶんだけ、変化が起こる。復元のためには、エネルギーがいる。何かするためにエネルギーを使い切ってしまったら、そこで動けなくなってしまう。


未来の日記を書いてしまいたくなることがある。今ならば、エネルギーが余っているからだ。エネルギーが余っているそのときに、使ってしまえたらいいのに。


蓄えておけばいいじゃない、と、これを読んだ人は思われるかもしれない。エネルギーが蓄えられる性質を備えていて、備蓄のための器があるならそれもいいだろう。


どういうわけか、僕がここでいうエネルギーは、備蓄がきかない。あるときにしかないものだ。ないときには、どこを探したってない。人に頼るべきときとは、そういうときかもしれない。頼られてくれる仲間を持つべきかもしれない。


未来の報告書を、先に書いてしまいたいときがある。あしたの飯を食ったあとのお皿なんか、今、洗ってしまいたい。友達がいっしょうけんめいモノした作品の感想は、鑑賞する前に言ってしまいたい。それで僕は、おまつり騒ぎをやって、両手ばなしで喜んでいる。おいしい料理をめいっぱい食べて、幸せいっぱいでごろ寝している。がんばって実施にこぎつけた事業をやりっぱなしにして、ほめられっぱなしでにんまり頬をゆるめている……


……そんなことは、なかなかかなわない。だから僕は今日も、いや、たぶん明日とかあさってとか来週の今頃だって、ないエネルギーを絞り出し、ひーひー言いながらも、おまつり騒ぎの後片付けをしたり、汚れた食器を洗ったり、ひととおりのお褒めちぎりをいただいたのち、もはやうんともすんとも言われなくなった事業の報告書をでっちあげ、昨日のうちに書き忘れた日記を今日やっつける。下手すると、そこにはおとといや3日前の書き残しまであったりするのだ。ああ、もう、ついでに明日の分までやってしまいたい。どこにもそんなエネルギーはないとかいいながら、毎日どこかからそれを持ってくる。僕が見落としているだけで、案外どこかしらにあって、意外とどうにかなるものらしい。世界もまだまだ、僕に優しいんだな。


お読みいただき、ありがとうございました。