家族写真と報道カメラマン

僕も妻も、じぶんの子どもの写真などよく撮ります。それをじぶんや子どもが、将来どのようなかたちで、どんなシチュエーションで見ることになるのかということはあまり気にせず、思いついたときに気の向くままに、日常の光景を撮影しています。


子どもの写真は、子どもだけが写ったものの割合がやや多いです。撮影者である僕や妻が一緒に写ったものは、全体に占める割合としては、子どもだけが写ったものよりも少なくなります。


僕や妻が撮影した子どもの写真が利用されるシチュエーションを撮影する瞬間にはあまり考えていませんが、きっと子どもが結婚式なぞするとなったときに見ることになるのではないかと想像がおよびます。僕自身、じぶんの結婚披露宴やらパーティを催すことになった際に、そうした写真を求め、探し、かき集めては眺め、選別したからです。そのとき、じぶんが誰かと一緒に写ったものは重宝したのを覚えています。披露宴やパーティのゲストになってもらう人の写真を、積極的に選ぶようにしたからです。


写真に残される光景は、ある意味特別な瞬間ともいえます。ひとつづきの時間の中における、特に目立った場面であり、楽しさのピークであることも多いでしょう。あるいは、そうして写真として切り取ることで、そのシーンこそが特別なものになるのかもしれません。


僕や妻が、子どもとの生活において、いつでもいい顔をしているとは限りません。満面の笑みで子どもと一緒に写っている写真がたくさんあるけれど、写真の中に残されるような微笑ましい光景ばかりではないのが現実です。つらいとか、苦しいとか、不自由だとか不快だとかいった思いをして過ごす時間もたくさんあるのです。そういった時間が背景となって、写真に残る「いい顔」を引き立てているのかもしれません。


僕や妻が青筋立てて怒っていて、子どもが大泣きしている……とかいった写真だって、あっても良いかもしれないと思います。時間が経ってからそうした写真を見たら、どのように思うのでしょうか。そうした状況において、写真を撮ろうという気になるのは有り難いことなのかもしれません。シャッターボタンを押す動機って、うれしいとか楽しいとかいった気持ちが中心なのですね。親子げんかの光景を残そうという場合は、報道カメラマンにでもなったつもりで客観的に向き合う必要があり、当事者である直接の親にはそれが難しいのかもしれません。


お読みいただき、ありがとうございました。