このゲームに、いくら張る?

思えば、子どもの頃って毎日が終わらないおまつりみたいなものだった。1日1日が長くて、楽しかった。それでいて、退屈な時間も長かったけれど。


そんなことに全力で時間をかけられるなんて!  と、大人なら思うようなことにもたくさん夢中になった。でも、今でも僕はそうしたことに夢中になれる心を持ち続けているつもりだ。


僕には3歳の息子がいる。昨日、誕生日を迎えたばかりだ。毎日、おふざけとお遊びとおのろけだけをつぎはぎしたような時間を、延々と過ごしている。


僕には僕ヴァージョンのおふざけとお遊びとおのろけがあって、僕も可能な限りそうした時間を過ごしていて、ときたま息子のそれと僕のそれが同調することがある。僕が息子に「乗ってあげられた」ともいえるし、息子が僕に「乗ってきてくれた」ともいえる。


おんなじ乗り物を動かすために、力を合わせて薪をくべ、役割を分担して操縦するようなものだ。そうやって、乗り物が動いていくことがおもしろい。どこかを目指して、そこにたどり着けることもある。思いもよらない景色を見て、想像もしなかった場所にたどり着くかもしれない。事故って難破するパターンもある。家の近所を一周まわって帰ってくるだけのこともある。


僕が息子に便乗してか、息子が僕に便乗してかわからないが、そうやって浮かれて盛り上がっているところを、他の人の目から見たらあぶなっかしく思うこともあるかもしれない。気持ちはわかるけれど、乗ってやれないと思う人もあるだろう。僕が調子に乗ってしまうことで、なおさらやきもきさせてしまうかもしれない。楽しいことは反面、あぶなっかしいのだ。


リスクをとらずに、リターンは得られないと思う。ビジネスの話は僕にはできないから、ここで言うのはもっと広義で抽象的なことだ。生まれてきて死へ向かっていくことが、そもそもリスクをかけてリターンを得る、長くて短いゲームみたいなものかもしれない。


協同して「張れ」ば、ひとりでは得られないリターンがある。張り合って、生きているともいえる。


お読みいただき、ありがとうございました。