コール・アンド・レスポンス 〜僕が「愛している」と言ったなら〜

すべては脳の反応の結果である、とするような説を本で読んだことがある。池谷裕二さんの、『脳には妙なクセがある』だったか。


自由意思のようなものがあるとかないとかいったことは何かと議論のタネになるけれど、思考して、おのれの行動をどうするか決断して実際に動き始めるその前に、脳はもうそのようにするモーションを見せているのだそうだ。すなわち、目の前にバナナがあってそれを手に取るといった場合、おのれの思考を経てバナナを手に取るか取らないか鑑みたうえでバナナを手に取るという行動を見せたかのように思われがちだが、実は脳は瞬時にバナナを手に取るという行動をする兆候を見せるのだそうだ。


僕があなたに「愛してます」と言ったとして、あなたが「わたしも愛してます」というかどうか知らないけれど、僕が何か言ったりやったりするのは、誰かからの刺激を受けた結果としての反応かもしれないし、あなたが何かを言ったりやったりするのも、同様に僕あるいは僕以外の何かしらから受けた刺激に対する反応なのかもしれないのだ。僕が池谷裕二さんの本に書かれたことを誤って解釈しているだけかもしれないけれど。


ところで、プロとアマチュアの境目がどこにあるのかということを気にする人は多いようで、たびたびその点が話題になったり議論のタネになったりする場面に遭遇する。


ある写真家の人が、いろいろあるけれどと前置きした上で「覚悟の違いじゃないかしら」と語ったという。僕は過去にそのことを耳にしていた。


そのことがあったうえで、昨日たまたま、同じようなことが別の人によって語られるシーンに遭遇した。


その人はプロとして長く作曲をおこなってきた人だった。その人の口からもやはり、10人のプロがいたら10人の違った答えがあるけれどと前置きしたうえで、「覚悟」というものの有無をプロとアマの境目を決める要素として挙げたのだ。


覚悟を、口先だけで語っても仕方ない。「わたしはプロです」と、台本に書かれた活字を読み上げることは、プロとしてやっていく覚悟がなくても出来るだろう。台本に書かれているのだもの、ということを、覚悟のないおこないの言い訳に出来てしまうのだ。


覚悟のかたちにもいろいろあると思う。アマとしてやっていく覚悟というものもある。その覚悟が向かう方向性のひとつに、結果としてプロとしてやっていくというかたちがあるだけだ。


やると決めたら、やる。さきほどの脳の話を参じて言ってみれば、やると決める前に脳はそう決めているのかもしれない。


どうなんだい、おれの脳よ?  と問うてみる。その答えは、おれの脳の中にある。


お読みいただき、ありがとうございました。