矢、刺さってる?

年度が変わった。僕の職場で、人の入れ替わりがあった。


僕の直接の上司、さらにはその上の大元のところに立つ上司も変わった。3月31日までとは、別の人になったのだ。


新しく上司になった人は、これまで僕の上司だった人とはいくぶん、仕事のやり方が違う。姿勢が違うし、根本的な考え方が違う。同じ立場につく人であれば、根本的な考え方が違うのはまずいのではないかと思うが、それでも違うと表現するのがふさわしいと思えるほどに、違うのである。


この上司たちの、僕に対する姿勢の違いのおかげで、僕はこれまでの仕事のやり方、すすめ方を一部改めることになった。それによって、予期していた時間では足りなくなることがあり、原因のすべてがそこにあるわけでは決してないが、いろんな仕事がいまカツカツ状態だ。


新しい上司は、これまでの上司たちのやり方に問題点を見出し、その問題の改善を図っている。これ自体は、悪いことじゃない。


ところで、話は変わる(あくまでそう前置きしておく)けれど、大なり小なり、リスクを負わずに結果や成果が得られることはない。


小さなリスクと引き換えに得られるものは小さい成果だし、大きければ大きい成果が得られる可能性と、同時に大きい失敗が待っている可能性が五分五分である。


結局のところ、賭すものに相当した結果や成果あるのみなのだ。この「賭し方」にのぞむスタンスが、人それぞれ違う。組織で仕事をすると、上司のこのスタンスによって部下は違った動き方を強いられることもあるだろう。


矢面に立つのは、だれだって怖い。痛い思いをしたくないのに、痛い思いをする可能性が未来に待っているのは、イヤだろう。


ただ、その可能性を引き受けて立つところにのみ、得られる成果があるのは間違いない。


僕は部下風情である。部下の立つ場所にあるリスクと、部下の立つ場所にある成果しかない。それ以上も、以下もない。


いつまでもここに立つには、狭くて不自由な立場といえる。いまは、ここで得られるものに価値を感じているから、その立場を守り続けている僕である。一方で、こんな立場、守るほどの価値があるものでもなかろうにと別の僕が言っている。


相反する自分が均衡してその場を動けないでいるとき、その人の背中を押したり手を引っ張ったりして、別の立場のヤオモテに導くのは、ときに他者である。ひとりで生きているのではないから、必然的にそうなるだろう。


ひとりで均衡しながらいることは、その立つ台の高さを上げるようなものかもしれない。どこかで「あの人、あそこからもうべつのところに行けるじゃん」みたいな指摘が入ったり、台の上の人がじぶんで気づいたりして、べつの台の上やべつの地平に向かって歩き出したり、ときには、ジャンプしたりする。


あんがい一番の怖さというのは、そうしたべつの台地やべつの地平に向かうそのモーションの最中にあるのではないか。


いざヤオモテに立ってしまえば、もう怖くない。もう立っているのだから、どうしようもないのだ。いや、言葉を変えよう。こうするしかない!  というのが明確になるのだから、やることをやるのみである。飛び交う矢を避ける? 跳ね除ける?  キャッチする? 盾を装備する? 敵地に向かって爆弾をぶん投げる? そのやり方は、それぞれである。


矢が刺さるのを、気にしないという手もある。



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