2Dの額縁

牛乳を売るという仕事がある。販売所に来てくれたお客さんに、お金と引き換えに牛乳を持って帰ってもらう。これは平凡である。


そこで、ある牛乳売りが、一定期間お客さんの家まで毎朝牛乳を届け、その対価を一定期間ごとにまとめていただく商売を考え出した。これは当初、非凡なサービスだったのではないか。


ラーメンという料理がある。麺、スープ、具材をそれぞれ別々に自己調達してひとつの丼に収めるところまでやったら、結構な手間と時間がかかる料理である。これを提供する仕事も成り立つだろう。


そこで、お湯を注ぐだけで食べられるラーメンを考え出した食品売りがあらわれた。時間がなくても、お湯を沸かしさえすれば完成したラーメンにたどり着くまでのほとんどの工程を終えたようなものだ。今でこそインスタントラーメンといえば一般に理解される名詞であるが、これは当初、非凡な商品だったに違いない。


牛乳を買いに行く手間を省いたり、ラーメンを食べに行ったり調理に手間をかけたりする時間や労力を省いたりすることにつながる商品やサービスが生まれた。消費者は、これによっていくらかの手間や労力から解放されて、時間や体力的・精神的な余裕を手にすることができる。


しかし、さまざまな商品やサービスの登場によって、もうこれ以上時間に余裕を生む必要はありません、という風にはならない。いったいどれだけ時間が足りないというのだろう。


足りるとか足りないとかいう軸で語ることが、そもそもおかしいのかもしれない。手間暇をかけてたどりついたラーメンを食す体験と、お湯を沸かして3分間でたどりついたラーメンを食す体験を、一緒にできるはずがない。それぞれが、まったく別の価値を持ったものなのだ。


時間を省きに省いたら、お次は何かと考えれば、空間だろうと思い至る。


発明されたばかりのパソコンは、現在の一般的なものより大きかった。携帯電話だってそうである。テレビも、箱というのがふさわしいような大きさと形状だった。今では、そのいずれもが小さく、あるいは薄くなった。「立体」だったものが「面」になった印象だ。


電波で情報が共有しやすくなったおかげか、さまざまな現実のものを画「面」の中で認知することが多くなった。実際よりも下の次元でものを認知していることになる。このことによって得たものは大きいが、失うものも相当だろう。


お読みいただき、ありがとうございました。