休・考・練

ああ、わたしは新年度でもうくたくたです。口でも言っちゃう、顔にも出ちゃう。


くたくたの直接の原因が「新年度」にあるはずがない。新年度になることに伴って生じるもろもろの何かしらに、僕は苦しんでいるのか。もう、年度なんて新しくならなきゃいいのに。ずーっとおんなじ年度でいればいい! ……ふぅ。今年度に入って、13か月目かぁ……」なんて。そう、原因は「新年度」にあるわけじゃない。勘違いも甚だしい野郎が僕である。


疲れを自慢にするつもりなんか全然ないのだけれど、困りごとへの嘆きがからだからこぼれ落ちてしまうらしい。


いや、厳密にはそれこそが、僕が周囲に甘えている証拠なのかもしれない。つらさを墓場まで持って行ってやり抜く度量は、僕にはない。


昨日、僕は余裕がない素振りをしていた。実際、余裕がなかった。そうしたら、手を貸してくれた同僚がいた。過去最高の速度で僕は瞬時に甘えた。これはすごく恥ずかしいことかもしれない。その可能性を鑑みる余裕さえなかった。


気持ちの余裕が、差し伸べる手に宿る。僕の手には、それがない。ああ、なんて小さな手なんだろう。実際には、そこそこ大きなものを掴んだり、掬いとったりするのにじゅうぶんな大きさがあるというのに。


すべての人に余裕がなければ、みんながお互いに干渉することなく、ただつらさを抱えて孤独に走るだけだ。僕が身を置く集団は、そうではなかった。これは幸運なことかもしれない。いや、それ以上のことかもしれない。


余裕の貸し借りが上手な集団はきっと、つよく、やさしく、おもしろいだろう。


ガス欠の状態で、それ以上に走ろうとしたらどうなる?  動かない車を、何人もの手を借りて、えっちらおっちら押していくことになる。手を貸してくれる人がいればいいけれど、独りではそれすらままならない。


車が動くこと=仕事がすすむことだとしたら、ガス欠に陥った場合、いったん車を置いておいて、どこかからガソリンを持ってくるしかない。


ガソリンが切れる前に、車が動いているそのうちに、ガソリンスタンドにおのれのタイヤを転がして滑り込めれば、ガソリンを移動させる手間はない。休むことも仕事のうちとは、聞いても何も感じなくなるくらいにいろんなところで繰り返し耳にしたフレーズだが、要は、ガソリンが切れてから休むんじゃありませんよということだ。


休むことへの考えを練る、か。


お読みいただき、ありがとうございました。