極東のニンニン

無駄にスケール感の大きいことを考える。その実のところは、話が飛躍しているだけで、哲学的でもなく論理的でもなく、ましてや理論的でもない。


具体的な数値やシチュエーションを、自分で導いたそのスケールの大きな話に代入しみても、有効な解が得られることもない。決定的な自己変革が起こることもなく、おおむね98パーセントくらいは昨日までどおりの僕としてのうのうと過ごすことになる。


おのれに2パーセントもの変化が実際にあったとすれば、それはきっとすごく革命的なことといっていい。確実に、その後のおのれの人生は変わっていくだろう。僕はおのれを2パーセントすら変えられていないのだ。それでいて宇宙だ、世界だ、日本がどうだと言っている。つくづく小さき者だと思うし、実際、小さい。


それでも、ウン十兆の細胞の集合体が僕なのだ。個々のそれらが寄り合って器官を形成し、機能を果たし、影響を与えあって、一個の人間ができている。こんな小さきものをかたちづくるために、たくさんの細胞が生きてはたらいていらっしゃるのだ。つくづくなんとも、ごくろうなことである。


いや、そのために細胞たちが生きているととらえるのも、思い上がり甚しい。細胞の個々は、ただただわっしょいわっしょいと時空を移ろい続けているだけだ。ただ結果としての、「僕」である。


「僕」もまたこの世界において一定の(不定の)役割を担う器官であり、定・不定の機能を果たす。


気がつけばまた、スケール感に幅のある話になっている。僕の持つ癖だろう。難儀、あるいは「安易」だろうか。


おのれの住む社会があって、このまとまりの範囲が僕の価値観の基盤になっている。


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それはそうと、日本は、大陸の端にある。


ここでいう大陸とは、ユーラシアのことだ。それでボヘーとヒュージでラージな太平洋があり、ハワイやなんやいくつかの諸島が浮かぶが、アメリカ大陸まで海、海、海である。


つくづく日本は、端っこだ。大陸から見て、そうなる。


地面が続いてさえいればまだ、大陸から見てもう少しつながり感のある国だったかもしれない。しかし、実際は、歩いていくことはできない。そこにニンジャだのサムライだのいるらしいという。まさに東洋に浮かぶ神秘である。ニンニン!


大きな陸地に、こちらから出かけていくとする。ひとつひとつの国を渡り歩けば、その国々のカラーの変化、グラデーションを感じられるだろう。地続きにゆるやかに変化していく世界がそこに広がるイメージだ。


逆を考えると、さまざまな地形に富み、狭い範囲に都会も田舎も自然もある、なんだかワッチャカした、それでいてどこかシッポリした島国が東の端の端にある、という感じだろうか。


アメリカからみても、西のお隣、というよりは極東という意識だとすれば、太平洋に、一体どれだけ深い溝があるというのだろう。日付変更線があるのも、この洋上だ。世界の終わりが、太平洋にあるかのようだ。かつてアメリカを新大陸だなんて言った人もいる。


遠いこと。果てにあること、端っこにあること。未知さ。それらは確かに、とらえようによっては魅力としても映る。興味を抱かせ、関心を高めるアイディアが生まれる取っ掛かりは、もうそこにあるといっていい。それを、どんな人に、どう伝えるかを考えるのみだろう。


おもしろいぞ、この国は。


指針はもうすでにあって、ピントを合わせるだけである。



お読みいただき、ありがとうございました。