那須は霧

気持ちとは裏腹なことをすることがある。全然「いいよ」だなんて思っていないのに「いいよ」と言ってしまうとか、やりたくもないことを習慣づけてしまって肩で息をしながらやるとかいうようなことである。


好きでなくとも、合理性をとる選択の仕方がある。


納得さえいけば、気持ちに従っていない場合もあるかもしれない。ただ、僕は多くの場合、結局おのれの気持ちに従った決定に対して、(場合によっては無理矢理にでも)合理性や論理性を見出すことが多いような気がする。気持ちに流されてどんどん不自由になり、時間的な制約を受けることさえある。つくづく不器用だと思う。


それを用いた行いを、好きでもないのに。そのものを好きになろうとしている。愛そうとしている。そんなことはありはしないか。


気持ちに従った決定は、本当はおのれの望みをかなえるものではないかもしれない。たとえば、安定した豊かな暮らしを望んでいるとしても、いつもその場その場の気持ちに従って過ごした結果、いつまでたっても不安定で貧しいままになるかもしれない。


気持ちに従って動き続けた結果、おのれの望みどおりになってさえいれば何も差し支えない。そこに差異が生じるから、僕は悩むのだろう。


実はすべては本人の望みどおりになっている、という可能性もある。僕は、おのれの本当の望みを履き違えているのだ。すべては僕の気持ちに従って、僕の望んだとおりになっているというのに。おのれの気持ちも、本当の望みさえも、僕が一番わかっていない。そんな真実があるかもしれない。


結局、おのれというのは切り離すことなく眺めることはできない。だから僕は、おのれの分身としての何かをつくるのだろう。生み出すことにこだわる理由としては、今のところそれが一番納得がいく。


納得が至上のものになって、僕は一体どこにいる?


お読みいただき、ありがとうございました。