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器械らしきものの多くが、電子機器的なものになりかわりつつある。電気と電子の違いもろくに知らずに言っている。


そんな僕にも、電子楽器と電気楽器の違いならある程度説明できる。電気楽器は、実際の空気やら物体やらの振動の情報を磁気的な信号に置き換えて、増幅して発し直すものである。一方、電子楽器には、物理的に発生した振動を信号に置き換えて発し直すというプロセスがない。あらかじめ採取されて機器の中に取り込まれている音だとか、いくつかの性質の異なる波を組み合わせたり単独で用いたりして、人工的に合成・もしくは生成した音を直に発するのが電子楽器である(……フゥ)。


古いものも、すたれきったわけではない。たとえば自動車というものについて、走るという機能を期待されている点が変わっていないように、楽器も、奏でるという機能を期待されている点が変わっていないのだともいえる。いや、あるいはあらかじめ打ち込んだ自動演奏のサンプリング音をスピーカーから流すことが奏でる行為だとはいえないとしたら、音楽のかたちは本当に変わったなぁと思う。奏でるという行為には、肉体性・身体性を伴ったイメージを僕は持つ。


奏でるのではなくて、音を鳴らすことが最終目的だったから、必要最小限の動作でその目的を満たす自動演奏というものがはびこった。はびこるなんて言葉をあえて皮肉みたいに使うのは、僕が一貫して肉体的な動作を伴って演奏することにこだわってきた自己弁護でもある。すり減るもんをすり減らして、あえて音を鳴らすことをしてきた。自分をつくづく、ノイジィな奴だと思う。


自動車の動力源が電気になろうとも、ハンドルを握ってまわし、アクセルやブレーキを踏むといった行為は潰えていない。これが自動運転となると話が違う。いや、人間の動作を要するという意味での労力は潰えるといってもいいかもしれないが、自動運転においても、ハンドルやアクセル・ブレーキペダルは依然としてそこに存在する形をとったまま、それらがひとりでに動いている様子が思い浮かぶ。これが音楽だったら、自動演奏でピアノ鍵盤がひとりでに浮き沈みをしているような光景に等しい。あらかじめ打ち込んだ通りにサンプリング音をスピーカーから再生するというプロセスには、楽器と称される肉体が存在しない。これが自動車だったら、ハンドルやアクセル・ブレーキペダルといった運転者のための肉体的なインターフェイスがない状態といえるだろう。


人間や物が移動するという物理的な動きさえも、バーチャルなものに置き換えられる未来が訪れるだろうか。音楽だったら、音が鳴ったような知覚、体験を擬似的にもたらすことができれば、そんなようなものに相当するだろう。


そうするともう、肉体がなくてもいいものになる。だが今は、僕という存在を定義する際、肉体の有無に頼り切っているのが実情だ。


電気自動車が走る際、走行音があまりに静かで、周囲にその存在を認知されないことによって生じる危険を回避するために、あえて電子音や擬似的な走行音を発する機能が付されているとどこかで聞いた。


仮に人間が肉体を手放した存在になったとき、おのれの存在を擬似的に証明するために、仮の肉体が発行される……なんてなりゆきを想像する。いやぁ、なんだかなぁ……僕はいまのところ、肉体を持つ存在でい続けたいと思っている。願わなくとも、その限りで死んでいくことになるだろう。


目の前に物理的に存在すると知覚されないものは、ないものとされがちだ。実は、存在しないことの証明こそがこの世で最も難しいことのひとつであると一部の人の間で囁かれていることを、僕は知っている。



お読みいただき、ありがとうございました。